ドイツとポーランドの関係

スターリンヒトラーと日ソ独伊連合構想』三宅正樹

 一九三九年八月に入って、ポーランドとドイツとの関係は悪化の一途をたどる。駐独英大使ヘンダーソン(一八八二~一九四二年)の回顧録『使命の失敗――ベルリン 一九三七~一九三九年』は、彼が現場で体験したこの時期のベルリンの、息詰まるような空気を伝えている。
 彼によれば、暴風雨の最初の、遠雷のようなとどろきが聞こえてきたのは八月四日であった。この日に、ヴェルサイユ条約によってドイツとは切り離され、国際連盟の管理下にあって自由市となっていたダンツィヒ(現在のグダニスク)と、隣接する東プロイセンとの境界線に勤務していたポーランドの税関監督官は、これからは職権の行使を許されない旨の通告をダンツィヒ自由市当局から受け取った。自由市ということにはなっていたが、ポーランド政府はダンツィヒポーランドに取り込もうとしたのに対し、住民の九割を占めるドイツ人に支持された市政府はヒトラー政権成立後、ますますポーランド政府と対決する姿勢を強めていた。そのポーランド政府は同じ八月四日、もしポーランドの税関監督官の職権の行使が妨害された場合には、きわめて強硬な対応をする旨の通牒をダンツィヒ上院に送付するように、ダンツィヒポーランド高等弁務官に指示した。(p54)


 ムッソリーニは、ドイツとポーランドの関係が急激に悪化して戦争が不可避の形勢となり、しかもヨーロッパ戦争に発展しかねないのを見て不安に駆られていた。ドイツの同盟国であるイタリアは戦争の準備がまったくできていなかったからであった。ヘンダーソンは、ミュンヘン会談の開催を英仏独三国首脳に呼びかけて、一九三八年九月末、チェコスロヴァキアズデーテン地方をめぐるヨーロッパ戦争の危機を回避させた役割を、ムッソリーニがもう一度演ずるつもりであった、と記している。そこでムッソリーニが、女婿の外相チアーノをドイツ外相リッベントロップとヒトラーのもとに急遽派遣して、ダンツィヒ問題解決のための国際会議開催を提案させたもの、とヘンダーソンは見ている。しかし、八月一〇日付のポーランドの口頭覚書を受け取った後のヒトラーは、もはやこのような調停案を受け入れる気持はなくなっていた。(p57)