ソクラテス裁判

『哲学の起源』柄谷行人

 ソクラテス裁判の前提として、つぎのような事実を確認しておこう。前四三一年からペロポネソス戦争が続いていたが、幾度もスパルタ側からの講和の申し入れがあった。それを蹴って戦争を続けたのはアテネである。好戦的なデマゴーグクレオンやアルキビアデス)が民衆の支持を得た。彼らがアテネを没落に導いたのだ。アテネの敗色が見えた中で、前四一一年「四〇〇人の支配」体制ができた。これは四〇〇人の上層市民からなる評議会に全権を委ねる寡頭政である。しかし、翌年には、民主政が復活した。前四〇四年、ついにアテネが降伏したため、スパルタ軍の監視の下に、二度目の寡頭派政権が生まれた。それは「三〇人僭主」と呼ばれ、多数の民主派を殺害する恐怖政治であった。が、国外に逃れた民主派が反攻し、翌年、両派の和解によって、民主政が復活した。しかし、和解協定があったため、「三〇人僭主」に加担した者やそれ以前にスパルタ側についていた者はその罪を問われずにすんだ。
 ソクラテスが告発されたのは、前四〇三年に復活した民主政の下であった。彼を告発したのは、アニュトス(その息子がソクラテスの弟子であった)であったが、その背後にこれまでのアテネの政治過程がひそんでいる。彼らは「三〇人僭主」の指導者クリティアスを糾弾したかったのだが、和解協定があるためできない。そこで、かわりに彼らの師であったソクラテスを告発したのである。ソクラテス自身は「三〇人僭主」への協力をかたく拒んだ。また、ソクラテスに忠実な多くの民主派の弟子たちは亡命している。ここから見ると、ソクラテスの告発が政治的な陰謀であったことは明らかである。(p180)


 プラトンにおいては、問答は一定の終り(目的)に向かって進む。そのような対話は、実際には自己対話、つまり、内省であって、他者との対話ではない。他者との対話がこんなに都合よく完結するはずがないのだ。たとえば、ディオゲネス・ラエルティオスは、ソクラテスの問答法についてこう書いている。

 そのような探究の際に、彼の議論はますます強引なものになっていったので、彼は人びとから拳骨で殴られたり、髪の毛を引っぱられたりすることもしばしばであったし、また多くの場合は、馬鹿にされて嘲笑されたのであるが、それでいてしかし、彼はこれらすべてのことにじっと我慢して耐えていた。そういうわけで、彼は足蹴にされたときにも辛抱していたので、ある人があきれていたら、彼はこう言ったというのである。「だがもし、驢馬がぼくを蹴ったのだとしたら、ぼくは驢馬を相手に訴訟を起しただろうか」と。

 ソクラテスの問答法は、相手がもつ虚偽の前提を論破し自己撞着に追いこむが、その先は予測できない。相手が「自覚」に達するかどうかはわからない。また「自覚」が持続するかどうかもわからない。したがって、この問答にはたえず危険性がつきまとう。命の危険が伴うのは、公人として活動することに限られないのだ。(p200)


ソクラテスの隣人たち』桜井万里子

 ソクラテスの裁判は、ほかのふたつの裁判とはちがって、これまで欧米の知的伝統のなかで特別な扱いを受けてきた。ときにはイエスの裁判と比べて論じられるほどに、思想史、宗教史上の大問題として議論されてきた。そうした長年にわたる専門家たちの議論に立ち入らないにしても、ソクラテスの弟子プラトンの名作『ソクラテスの弁明』(以下『弁明』)をとおして、ソクラテスは民衆裁判で蒙昧なアテナイ市民たちの投票によって不当にも有罪の判決を受けた偉大な哲学者だ、と理解している人も多いのではないか。このようなソクラテス像をまちがいであるというつもりはない。
 たしかに、現代社会に生きるわれわれの価値基準からみれば、判決は不当であった。だが、ソクラテス有罪の判決をわずかの票差でだしたアテナイ市民は、衆愚に陥っていた、といってよいのか。ここでは、ソクラテスその人にではなく、ソクラテス有罪の判決をだした陪審員たちの側に眼を向けて、前三九九年のアテナイ市民たちにとってソクラテスの裁判がどのような意味をもっていたのか、考えてみたい。(p218)


 法廷に座っていた市民たちの目には、ソクラテスがどのような行動をとってきた、と映ったのだろうか。ソクラテスに身近に接していた市民であれば、彼の人と思想を判断のさいの参考にしただろう。ソクラテスと親交がなくても、彼の日ごろの言動についての風聞を判断の拠り所とした者もいたろう。
 実際、ソクラテスを批判する声がすでに長いあいだ巷間に聞こえていたことを、ソクラテス自身が認めている。裁判の直接の告訴人ではなく、このような長年の批判者が手ごわいのだ、とことわってから、ソクラテスは弁論をつぎのようにつづける。

 かれらが、諸君の大多数を、子供のうちから、手中にまるめこんで、ソクラテスというやつがいるけれども、これは空中のことを思案したり、地下のいっさいを調べあげたり、弱い議論を強弁したりする、一種妙な知恵をもっているやつなのだという、何ひとつ本当のこともない話を、しきりにして聞かせて、わたしのことを讒訴していたからなのです。

 陪審員として法廷に座った市民のひとりひとりの脳裏を走ったのは、そのような風評だけではあるまい。だれもが、ペロポネソス戦争が始まってからの、とりわけシケリア遠征いらいアテナイの形勢が不利に転じてからの苦しい戦況を経験していた。自分たちの総意で決定してきた戦争に端を発するとはいえ、市民たちは苛酷な過去を背負って、この法廷に座ったのである。自分が、家族が、友人、知人が生きてきた、あるいは、途中で命を落としたこの三〇年に近い時間を、ソクラテスはどう生きてきたのか。市民を代表する陪審員たちは、当然それを考えただろう。(p232)


『図説 ギリシア』周藤芳幸

 「町の真中に場所を設け、そこへ集まって誓言しながらだまし合うような人間どもを、わしは今まで恐ろしいと思ったことなどはないのだ」
 これは、ペルシア戦争の前夜に、スパルタからサルディスへ抗議の使者がやってきたとき、ペルシアの王キュロスが吐いたとされる捨てぜりふである。このエピソードを伝えるヘロドトスは、アルゴリス半島のトロイゼンから植民されたハリカルナッソス市(現在はトルコ領となっているボドルム)の出身だった。彼は、前五世紀の中頃、黄金時代を迎えていたアテネに長く滞在していたが、もしかすると町の広場で出会った狡猾なアテネ市民に一杯喰わされた経験があったのかもしれない。そのように想像をたくましくさせるほど、この言葉には、ギリシア人の性格のある一面が的確にとらえられている。(p80)