アヘン撲滅

『台湾は日本人がつくった』黄文雄

 後藤新平の漸禁策で中毒患者が激減

 アヘンの吸飲は、李鴻章に言わせれば、「台湾四害」のひとつとして絶対根絶できないといわれてきた。四害とは、「瘴癘、アヘン、土匪、生蕃」を指す。李鴻章は、日本が下関条約によって台湾を統治しようとしたとき、伊藤博文首相に、「化外の地」台湾は「花が香(にお)わず鳥がさえずらない。男に義無く女は無情」の島であると警告している。また、台湾の認識不足か伊藤首相への嚇しか、台湾の「生蕃」は人口の六〇パーセントもいるとも言っている。
 樺山資紀は、総督に就任するやいなや、アヘン吸飲禁止や刑罰令を出したものの、法と罰だけでは禁止も根絶もできないことを知った。アヘン吸飲に、刑罰、極端に言えば死刑を適用するというだけでは解決できないのは、中国の麻薬中毒患者の実情を見れば一目瞭然だろう。
 アヘン戦争以後、中国人のアヘン吸飲は減るどころか、逆に年々増加を続け、一九三〇年代の麻薬中毒者は推定三〇〇〇万人とされた。上海のゴッドファーザーと呼ばれる、杜月笙が経営していた「三鑫公司(さんきんこんす)」(賭博、妓娼、アヘン経営)の年間総売り上げは、当時の中国国家予算の六分の一にものぼるといわれるほどだ。
 中国が社会主義体制になっても、中国人の麻薬経験者は四人に一人、つまり約三億人もいたという推計もある。麻薬密売者たちへの見せしめのため、サッカー場でいくら公開銃殺刑を行っても、まったく効果がなかったほど問題は根深い。
 後藤新平は、そんな禁断の領域に敢然と挑戦した。医者として、すでに台湾アヘン問題の深刻さを知っていた後藤は、日本内務省衛生局長の時代から台湾総督府民政局に綿密な調査を指示していた。その調査結果をもとに「アヘン事項調査書」を完成。これは、「台湾アヘン問題の百科辞典」といわれるほど詳しい調査研究分析報告書であった。
 台湾も同様の問題を抱えていた。後藤新平は、綿密なアヘン問題の研究調査から、全面禁止は不可能だと知った。強引な厳禁策を取れば、吸飲者たちの激しい抵抗を受けるのは必至だということも分かった。もしも、暴動などが起こったら、少なくとも二個師団の兵力がなければ鎮圧はできないだろう。仮に全兵力をもって鎮圧しようとしても、禁絶は不可能だろうともいわれた。弁髪、纏足、そしてアヘンの厳禁は日本台湾統治の三大禁制となったのである。
 実際、樺山初代総督は、強硬策でアヘン吸引の断禁を試みたがまったく効果はなかった。それを引き金に、日本政学各界でアヘン政策論争が起こってしまった。後藤新平は、これを教訓に懐柔策を取ったのである。
 後藤が考えたのは、アヘン中毒根絶に五〇年をめどにした長期計画「漸禁策」であり、アヘンを国家の専売制にして管理するという「条件付きのアヘン吸飲」によって、徐々に吸飲者を減らしていくというものだった。
 これは同時に、二四〇万円以上の国家収入も見込める。日本の領台初期の資金は、軍事費をはじめ日本中央政府の補助に頼っていたという事実もあったため、資金を台湾で調達できるなら、それに越したことはない。また、アヘン吸飲の苦痛から救うという「人道的」考慮からも、「漸禁策」は有効にして得策と考えられた。
 こうして後藤は、公営によるアヘン製造工場をつくり専売制度を取った。その収益は、台湾の衛生事業施設の主要経費にあてるという、一石二鳥の策である。
 しかし、戦後の国民党政府による反日教育では、後藤は台湾人に公然とアヘンを売って財政を支えたと、あたかも悪人のように教えている。当然それはまったくの歴史捏造である。

 アヘン政策に成功した日本、失敗した中国

 後藤は、この構想を当時の内務大臣・野村靖に提出し、賛同を得た。さらに、明治二八年(一八九五)一二月には、「台湾島アヘン制度意見書について」といった書類を台湾事務局長である伊藤博文に提出するに至った。
 翌年四月一日、ついに「台湾製薬所組織規制」が公布される。「製薬」とは、もちろんアヘン製造のことである。後藤は、加藤尚志を台湾総督府製薬所長に任命し、近代的なアヘンの製造を始めたのだ。
 明治三〇年一月、総督府は「台湾アヘン令」を発布し、同年四月から全島のアヘン吸飲者調査を実施した。明治三三年当時の調査では、台湾のアヘン吸飲者は一六万九〇六四人で、一〇〇人に六・三人の割合という結果が出た。調査結果に基づき、アヘン吸飲者には特許(吸引の特別許可証)を与え、その他は一切禁絶する。それがアヘン専売制であった。
 漸禁策は見事に的中する。実際、約一七万人いた吸引者は昭和一〇年ごろには約一万六〇〇〇人と、十分の一に激減している。そして昭和一四年には五〇〇人を割るほどの成果を得た。
 アヘンと同じく総督府が禁制を取った纏足についても、明治三八年の纏足婦女子は女性人口の七割近く(八〇万人以上)だったが、昭和五年には六分の一の約一四万人にまで減った。とくに、三〇歳未満の若い婦女子の纏足は一〇〇〇人中六人余りまでに抑えることに成功した。「アヘン漸禁策」を知った清国の実力者であった劉坤一と張之洞らは、明治四三年に台湾の制度を真似て奏文で専売法を施行、漸禁策を主張した。大正一二年には、海関税務司のアグレンが台湾のアヘン制度に学ぶべきだと、万国禁煙会で提案し、翌年五月三日の上海英字紙『字西西報』では台湾アヘン政策の成功を絶賛した。大正一三年の万国禁煙会でも紹介されている。
 しかし、中国ではアヘン断禁政策は失敗し、逆に吸飲者が激増してしまった。(p151)


アメリカはアジアに介入するな!』ラルフ・タウンゼント

 日本が阿片を持ち込んだという欺瞞
 中国に阿片は千年以上前からある。第一次大戦後、内戦に明け暮れる将軍様たちがその私兵を養うため、栽培が大々的に復活したのである。ウソだとお思いなら、どれでもいい、適当な資料を読むとすぐ分かる。近頃は中国に不名誉になりそうなものは全て新聞が隠しているが、それ以前の資料には阿片が如何に大問題だったか、しっかり書いてある。
 ところがアメリカでは、「日本が一九三七年の日中戦争から阿片問題を中国に持ち込んだ」と叫んで反日運動に利用している。
 あの国際連盟の麻薬問題報告書一九三六年度版は、「世界の阿片製造の九〇%は中国」と非難している。ところが、二年後の一九三八年には「近年、阿片問題を中国に持ち込んだ日本」ときた。一体どうすれば世界の阿片の九割を作っていた国が、翌年いきなり「外部より強制」となるのか、その訳を知りたいが、説明はない。英・仏による連盟の私物化は明らかである。アメリカは連盟に加入していないが、一枚噛んでいるのも明らかである。連盟の出す刊行物はこうした矛盾にお構いなしで、英・仏の御気に召さぬ国には、いつでも矢を放つ「ご乱心」ぶりである。
 アメリカでも反日運動家たちは「一九三七年、日本が持ち込むまで、事実上、中国に阿片は存在しなかった」と言っている。「ウソだ」と私は断言できる。なぜなら、日中戦争が始まる前、私が知っているあちこちの地区で、役人が阿片作りを強制していたからである。
 ところで一九二六年に、全米地理協会なる団体が「中国の飢饉の要因」なる膨大な報告書を認めている。これにはこうある。作物畑が阿片畑になった要因の主たるもの、それは腐敗した「中国人」役人の命令であると。この時の編集者に名を連ねていたのがO・J・トッド氏。ところがこのトッド氏、「機を見るに敏」。最近では、反日運動や対日戦争実現派のご要望にお応えし、日本叩きに変身。あちこちで「日本が持ち込んだ」と講演してまわっている。
 もう一つ例を上げよう。あの『ニューヨーク・タイムズ』は、「一九三七年、中国にやって来た日本が阿片を持ち込んだ」と日本非難に大忙しである。ところがこの同じ『ニューヨーク・タイムズ』の中国特派員・ハレット・アベンドの著者『中国は生き残れるか』(一九三六年)には「歳入確保のため、ケシ栽培を強制する中国人役人」(一九二~一九三頁)とある。実は、一九二〇年頃から、阿片は軍閥の「金のなる木」である。「ケシにしろ」と鉄砲構えて一喝すれば、あらかた、「行けど進めどケシまたケシ」となったのである。現地を知る者ならこれは常識である。(p232)