国際委員会の発足

南京事件 国民党極秘文書から読み解く』東中野修道

 一九三七年(昭12)十一月十二日、蒋介石は南京死守を決定したものの、十六日には南京放棄をひそかに決定し、全官庁の撤退を命じた。蒋介石はそれから南京に二十日間とどまったのち、ひそかに飛行機で逃亡した。それが南京陥落六日前の十二月七日であった。
 十一月十七日、南京放棄決定の翌日、非戦闘員のための安全地帯を作る目的で、南京にいた欧米人が国際委員会を結成した。(p63)


 そのメンバーは時期によって多少の異同があるにせよ、アメリカ人六名、ドイツ人四名、イギリス人五名、デンマーク人一名であった。
 十一月二十二日、国際委員会の代表にジョン・ラーベ氏が推された。ラーベ氏は十一月十九日の日記に、安全地帯の構想を知らされ、「一緒にやらないかといわれた。……私は承諾し、スマイス教授の家〔バック邸〕で開かれた夕食会で、アメリカ人の参加者全員に紹介された」と記している。
 ラーベ氏や、聖パウロ聖公会伝道団の宣教師であったアーネスト・フォースター師、ジョン・マギー師が何度も言っているように、安全地帯とはあくまでも軍事力の存在しない、非戦闘員のための「中立地帯」(a neutral zone)であった。(p65)


 安全地帯を作ることになった国際委員会の最大の関心事の一つは、安全地帯に非難してくる避難民の数であった。国際委員会が安全地帯を運営するうえで、人口の把握は不可欠であった。国際委員会としては一刻も早く正確に知りたい情報であった。
 記者会見で南京の人口を国際委員会は質問したのであろう、国民党政府関係者は直ちに返答したようだ。「ラーベ日記」を見てみると、十一月二十五日、ラーベ委員長は「目前に迫った南京をめぐる戦闘で、二十万人以上の生命が危機にさらされることになります」と記し、ジーメンス社にたいしては「当方南京残留を決意。二十万人を超す非戦闘員保護のため」と記している。十一月二十八日には「首都警察庁長官王固磐は、南京にはいまだ二十万の中国人が住んでいるとくりかえし説明した」(傍点筆者)とも記している。王固磐はくりかえし説明した、と書かれているところをみると、国際委員会は人口について何度も確認したのであろう。
 要するに陥落十五日前の人口は二十万と認識されていた。
 では陥落直前の人口はどう認識されていたであろうか。国際委員会が陥落直前に提案を試みた休戦提案には「よるべなき二十万市民」とある。つまり、陥落の数時間前も二十万と認識されていた。
 国民党政府がどのように人口を調査したのか、はたして「二十万」という数字は正確だったのか、それは分からない。ただ記者会見には国民党政府関係者、中央宣伝部関係者、国際委員会のメンバーが集まっていた。したがって「二十万」というのは周知の、知れ渡った数字であった。それを南京に残留した人たちは等しく共通の認識としていた。(p68)