鞭を持ったキリスト

『世俗宗教としてのナチズム』小岸昭

 その、きわめて独自で過激なキリスト観は、完成稿『ミヒャエル』の次の個所に最もはっきり表現されている。
 「僕はキリストと対話を行う。キリストを克服したいと思っていたが、それは偶像であり、偽者に過ぎなかった。キリストは峻厳にして仮借ない。キリストはユダヤ商人を鞭で神殿から追い出す。金を目当ての宣戦布告。今日そんなことを言ったら、豚箱か精神病院行きだ。我々はみな病んでいる。我々をもう一度救うことができるのは、腐敗に対する戦争しかない。支配階級は疲れきっていて、もう新しいことをやるだけの気力もない。知性が我が民族を毒したのだ。ヘルタ・フォルクは僕を見つめて、首を振る。六月一五日。リヒャルトは僕のことを幻想家だと言う。幾夜も僕は眠らずに、襲いくる暴力と戦う。僕らのうちにわきあがる叛乱、騒乱、革命。僕のうちに芽生えて壮麗な形態に高まっていくひとつの理念。死の舞踏と復活。」
 このように「ユダヤ商人を鞭で神殿から追い出す」峻厳にして仮借ないキリストは、「憎悪の化身にほかならぬユダヤ精神から最も隔たった対極の天才」として位置づけられる。(p95)