ドストエフスキーへの傾倒

『世俗宗教としてのナチズム』小岸昭

 年長の友人リヒャルト・フリスゲスがゲッベルスの世界観に与えた最も大きな影響は、大学生ゲッベルスドストエフスキーを読むようにすすめたことだった。それによってゲッベルスは、一九一八年から一九年にかけての冬学期にヴェルツブルクで『罪と罰』などを集中的に読みだしたのである。当時、経済的困窮のうえに肉体的な欠陥に悩み、さまざまな離反と疎隔の経験で繰り返し絶望の底に突き落とされていたこの若い知識人にとって、「おまえは信仰を持たなければならない!」というドストエフスキーの宣言は、衝撃であると同時に救いだった。確かに、ゲッベルスが人々の目に魅力的に映るのは、彼のなかにあるドストエフスキーへの憧憬が青年時代の共通体験として今日でもまだ十分に感じられるものだからである。だが、感覚的神秘主義に対するこうした文学体験も、ゲッベルスドストエフスキーの世界の基底にある絶望と救済の主題を一方的にナチズムの水路へ引き入れ、そこから野蛮な政治的エネルギーを汲み上げて、第三帝国という反文学の神話を極端へと推し進めていく過程にほかならなかった。そのことは、じつは学生ゲッベルスがその博士論文の扉に『悪霊』から次の文章を引いてきた時、すでに始まっていた。
 「理知と科学は国民生活において、常に創世以来今日にいたるまで第二義的な、ご用聞き程度の職務を司っているに過ぎない。それは世界滅亡の日まで、そのままで終るに相違ない。国民は全く別な力によって生長し、運動している。それは命令したり、主宰したりする力だ。けれど、その発生は誰にも分からない。また説明することもできない。この力こそ最後の果てまで行き着こうとする、渇望の力であって、同時に最後の果てを否定する力だ。」(米川正夫訳)
 これはドストエフスキーが自身のスラヴ派的な歴史哲学を仮託したシャートフの口から語られる有名な言葉である。ゲッベルスは神秘的な指導力をかぎわけるその鋭い嗅覚によって、「神を孕める民族」の未来の救済にかかわるこの言葉を、『悪霊』全編から正確にさぐりあてたと言える。(p89)