ヒムラー

『ナチズムの歴史思想』フランク=ロタール・クロル

 ヒムラーにとっても、いわばマニ教的刻印をおびたこの世界観の中で、ユダヤ人は、それ以外は考えられないように、あの暗黒の対抗勢力の側に属した。つまり、「何千年来」、アーリア的ゲルマン的ドイツ的人間の姿をとって人格化された光の力と、この惑星の形成をめぐって闘ってきたあの対抗勢力である。(p172)


 ヒムラーは、一種の歴史的類型論を用いて、全部で五つのこうした「襲撃の波」を確認している。「ヨーロッパへの襲撃」は四、五世紀のフン族の侵入で始まった。このため、ゲルマン諸部族は西方に逃げざるをえなくなり、こうして民族移動が起こった。これに匹敵するアジアからの侵入は、次いで、九、十世紀のマジャール人、十三世紀のモンゴル人、十六、十七世紀のオスマントルコ人によって行われた。ヒムラーは、ボリシェヴィズムによるロシア人、スラヴ人の動員をこうした「アジアの波」の当面の最後のものとみなしたが、遅くともこの時点で、彼の歴史的議論が日常政治のレベルでもった目的志向が明らかになる。(p172)


 無味乾燥で、生活と無縁だとされた形式主義を特徴とする、学校や授業や大学での歴史的知識、「カエサルから誰それにまで及ぶ」恣意的な歴史の数字を次々に並べる知識に対する彼の攻撃は数多く、こうした誹謗を、明白に反主知主義的な彼の心情と直接関連させても間違いではないだろう。この心情のために、彼はまたも、「過剰な」知性教育の担い手全員に対してきわめて激しい態度をとり、彼らを第一に「堕落した教育」の産物であり、「誤った賢明さと誤った知性」の代表者だと考え、歴史考察にも実物教育の形態を要求した。これは、「知力に関わることではなく、……心による認識」に基づいており、知識を与えるのではなく、「気持ちと心にまで達する」というのである。このような言葉にみることができる、精神的存在領域への軽蔑は、まさに人間像を、自然のリズムと循環にはめ込まれた、肉体的・生命的な生の表現の機能領域に唯物主義的に還元することに対応しており、こうした還元は、ダレーに代表される、ナチズム思想の生物学主義的変種も行っていた。
 しかしそれでは、ヒムラーが要求した、「心による認識」をめざす歴史観とは、どのような具体的内容を伝えるものだとされたのだろうか。このような「認識」は何に関わっていたのだろうか。その「認識」は、いかにして、つまり、どのような中心的観点や問題設定に基づいて、歴史的諸現象の重要性の考量・序列化の指針となる基準に到達したのだろうか。ヒムラーが最も一般的な基準とみなしたのは、学習の観点であった。過去をみることによって、現在を形成するための教訓を引き出し、明らかになった誤りがくり返される可能性を未来において避けること。これが、「歴史」とつき合うときに第一にめざされるべき目標であった。そのようなつき合いを通して、「われわれの血をもつ人間が、当時はおそらくもっと良い状態であった本能にしたがって行い、どこかに記録したすべての経験を、われわれのために利用する」というのである。(p185)


 この事業は、ヒムラーの方針によれば、まず第一にゲルマンの原始時代や初期の歴史研究の領域に広がり、この範囲の中で、考古学、古生物学、言語学民族学のテーマを含んでいた。その際、認識関心は、たとえば、ルーレ〔管楽器〕の模造、〔古代ゲルマンの〕蜜酒の製造、「ラヴェンナ〔ドイツ中世叙事詩に出てくる戦いの場〕における昔の処刑場の魅力に関する」研究、「ユトラントに暮らす老女によるキンベル族の刺繍やレース編み」といった注目すべき研究対象や、あるいは「日本人農民とバイエルンの乳搾り女のはくズボンの類似性」に向けられた。ヒムラーは、個人的な疑似論理を形作る際の、彼に典型的な無頓着さで、これらの活動にはすべて厳密な学問性がもつ「神聖な真剣さ」があるのだと称した。いやそれどころか、それらは、彼には、これまで支配的であった学問の歪みや「歴史の誤った解釈」からの「解放」だとすら思われた。(p187)


 ヒムラーがここで――精神史的に見れば――、「同じものの永遠の回帰」という古くからの思想に遡っているのをみて取ることは困難ではない。この思想は、アナクシマンドラス、ピタゴラスヘラクレイトス、エンペドクレスといったギリシア初期哲学の周辺ではじめて断片的に登場して以来、古代以後の時代においても、西洋の思想内容にくり返し蓄積され、とくに歴史的な革命や危機の時期には非常にさまざまな仕方で持ち出された。ヒムラーニーチェを読んで――これは確かである――「回帰」の理念になじんだのかもしれないが、おそらく、親衛隊内で高く評価されたハンス・ヘルビガーの宇宙氷説――周期的に行われる氷と炎の闘いが、あらゆる宇宙の出来事の原動力であるという理論――の影響を受けているのだろう。そのうえ、この理念は、その強く反キリスト教的ないし反マルクス主義的方向性からもヒムラーには好都合であった。というのは、歴史過程の一回性と目的志向性を同じように強調する、キリスト教ないしマルクス主義の直線的な歴史理解とは逆に、「回帰」という言い回し、そしてこれと結びついた再生という理念は、つねに互いに類似した状態で推移する循環的な歴史の動きという観念を含んでいるからである。この観念は、人間の出来事を、生と死、昼と夜、潮の満ち引きという宇宙のリズムに似た状況だと考え、始まりも終わりもなく永遠にくり返される循環に結びつけ、それゆえ、過去、現在、未来を基本的に同じ形態の時の継起だとみなした。
 ヒムラーは、この「回帰の世界像」を信じると公言して、キリスト教的歴史理解を――ここから引き出される、目的論的思想の世俗的形態すべて、したがって啓蒙の進歩哲学や、社会主義ないしマルクス主義の具体的なユートピアを含めて――非難しただけではない。彼は、歴史過程には意味があるということ、歴史はひたすら目的に向かって進行するということ、および歴史過程の一回性を否認したので、彼にとっては必然的に、伝統的なキリスト教人文主義人間像も根拠のないものとなったのである。(p199)


 しかし、そこから、ヒムラーには、意識的に「未来の伝統」」の創設者になるという要求が生まれた。つまり具体的には、「われわれの後にやって来る者たち」を拘束することになる伝統の創造をめざして行動するというのである。(p202)