「侵略国」対「平和愛好国」という神話④

『戦後が戦後でなくなるとき』大澤正道

 日本とドイツを隔離せよ
 一九三七年(昭和十二年)十月五日、ルーズベルトは不干渉主義の牙城シカゴに乗り込み、一場の演説を試みた。それが例の「隔離演説」である。ルーズベルトはそこで現在世界人口の九十パーセントの平和と安全が、国際法と秩序を踏みにじる十パーセントの人間に脅かされているとし、「平和を愛好する諸国民はこれに対抗しなくてはならない」と呼びかけた。これがルーズベルトが「平和愛好国」なる言葉を使った最初である。
 この「隔離演説」は以下の三つの局面で問題になった。一つは米国の国内政治で、不干渉主義に対するルーズベルトの最初の挑戦と目された。ルーズベルトの好敵手だった共和党のフィッシュは、この演説以来、不干渉主義者はルーズベルトに疑いを抱くようになったと書いている(『日米・開戦の悲劇』)。ルーズベルトはこの機会をとらえて米国民の意識改革をねらったのだが、反応はさっぱりだった。
 二番目は日本と中国である。もともとこの演説は支那事変の戦況拡大が背景になっている。支那事変勃発直後の米国の対応は満州事変の場合と同じで、日中いずれにも与せずという中道政策だった。だがこの演説をきっかけにして、米国は中国支援の姿勢を強めていく。国務省は演説の翌日、初めて中国での日本の行動は九ヵ国条約と不戦条約違反だと声明し、国際連盟も十月六日、日本を「侵略国」とする非難決議を採択している。
 最も喜んだのは蔣介石である。蔣介石は百万の援軍を得た思いで徹底抗戦に向かっていく。もしこの時ルーズベルトが救いの手を差し延べなかったら、日中和平は実現されていただろう。「平和愛好国」を自称する大国の干渉が戦火を必要以上に拡大させ、戦争の終結を引き伸ばす実例がここにもある。昨今のボスニア紛争をみれば明らかなように、このルーズベルト方式は相変わらずルーズベルトの後継者に踏襲され、平和の回復を遅らせている。まるで兵器産業の救済策のようにみえる。
 第三はこの本が追求している政治神話との関わりである。まずルーズベルトは世界を「平和愛好国」と「侵略国」の二つに分ける。このような分類が現実の世界とどれほど掛け離れたものであるか、そしてまたこのような単純化がどれほど戦争の長期化と残虐化に貢献するものであるかは後述するとして、いま少しルーズベルトの主張を聞くことにしよう。ルーズベルトはさらに次のようにしゃべっている。
 「いま、世界的無法状態の伝染病が蔓延しつつあることは不幸にして真実であるように思われる。ひとたび身体の病気が蔓延すれば、その共同社会は、病毒の拡大から社会の健康を守るため、患者の隔離を承認し、その隔離に参加するものである。」
 この隔離という言葉にルーズベルトが託した意味は軍事制裁ではなく、経済制裁であったという。あるいはのちの封じ込めに近いともいわれる(永井陽之助『冷戦の起源』 昭和五十三年)。けれどもそれはルーズベルトが軍事制裁、つまり戦争の回避を望んでいたためではないだろう。ケナンのいうところによれば、当時、「世界の陸軍力と空軍力の圧倒的部分」はドイツとソ連と日本の三国によって占められていた。だとすればルーズベルトは戦争準備の時間稼ぎで経済制裁を当面考えていたのではないか。さらにいえば対蔣援助も日本の軍事力を中国大陸に釘付けにしておきたかったからかもしれない。日中和平が成立してはルーズベルト大戦略は狂ってしまったはずである。
 それはともかくとして、なぜルーズベルトは日本やドイツを隔離するといったのだろうか。おそらく米国の聴衆に分かりやすくという配慮はあったろう。だがそれだけだったろうか。永井陽之助は『冷戦の研究』で、隔離という言葉には歴史的な観念連合として次の三つの事実が分かち難く結びついていると指摘している。(一)東方への恐怖感、《黄禍論症候群》。(二)魔女狩と伝染病。(三)海上支配権。このうちとくに(三)が重要だと永井は指摘している。ルーズベルトがこれらの意味をわきまえて隔離といったとは思えないが、この言葉をあえて選んだルーズベルトの意識の奥にはこうした観念が沈んでいたのかもしれない。
 もっともルーズベルトは、一時期、本気で日本国民を日本本土に強制隔離することを考えていた、という説もある。そうすれば日本国民の「先天性非行素質」が東アジアの平和諸民族を汚染せず、安定した平和が確保できるだろうというのである。「先天性非行素質」を白人支配に対する「先天性反抗素質」といいかえれば、ルーズベルトの危惧も分からないではない。
 日本隔離はルーズベルトだけでなく、米国国務省極東部長で反日親中派の総帥ホーンベックも口にしている。日本国民を「地上から抹殺」する「カルタゴの平和」は「文明と人権」を掲げる米国政府としてはやれない。そうである以上、日本を国際社会から隔離するほかない。幸い、日本は島国だから隔離は比較的容易で、他国に迷惑をかけることもなかろう、と言いたい放題のことを言っている。
 ドイツについてどう隔離するつもりだったのかは知らないが、これがキリの部分の米国民の本音だったことは間違いなかろう。問題は最高指導者である大統領がこのキリの部分の誤りをたしなめず、むしろ煽動して日本国民やドイツ国民をすべて伝染病患者にしてしまい、世界から隔離せよと演説したことである。(p107)


 抽象化、単純化の誤り
 ルーズベルトが「隔離演説」で蒔いた政治神話の種子は、戦争心理というなによりの培養土を得て順調に成長していった。ケナンが述べているように、戦争はつねに「短慮と憎悪に基く意見」の煽動者だからである。大西洋憲章(一九四一年八月)で隔離は「自国国境の外で侵略の脅威を与え(ドイツ)、あるいはそうする可能性のある国(日本)」の「武装解除」の要求となり、カサブランカ会談(一九四三年一月)でついに日・独・伊三国の無条件降伏が決定された。
 それはたとい戦争を開始したファッショあるいは軍国主義政権に代わる新政権が日・独・伊で樹立されても、その新政権とも和平交渉は行わない、世界地図から日・独・伊三国を抹殺するまで戦争は止めないという狂気の決定だった。日本政府はこの決定をルーズベルト一流の脅しと受け止めていた。日本政府がまだ正気だったからだろうが、敵の狂気を見抜けなかった点では愚鈍な正気というべきかもしれない。またチャーチルとのこの会談で、ルーズベルトはドイツ市民に対する戦略絨緞爆撃を決めている。
 「この決定は、戦時の特殊な感情と非現実的な考えのために判断がゆがめられた結果、とられたものであった。それが賢明な決定でないことは今日のわれわれには明らかであり、当時すでに一部の指摘するところであった」と、米国の歴史家ハレーは『歴史としての冷戦』(一九六七年、増補版 一九九一年)で書いている。ハレーは国務省でケナンの下で働いていた経歴の持主だが、ケナン同様国務省を去り、学究生活に入った。この本について「ルイス・ハレーはまれにみる難しいことをやってのけた。それは最近年の歴史を百年前のことのようにみせている」と、ケナンはほめている。
 この決定の主な責任は米国にある、とハレーはいう。もし米国民が「第二次大戦が実は勢力均衡の回復のための戦いであることを認識していたら、このような決定はしなかっただろう」。なぜならもし戦争目的が新しい勢力均衡の回復におかれていたら、交戦国は双方とも目的を共有できる。目的が同じなのだから、交渉による合意は可能である。
 ところがルーズベルトチャーチルも(おそらくスターリンも)そうは考えなかった。勢力均衡はルーズベルトが諸悪の根源として忌み嫌っていたところである。彼らはもっと単純な考え方に取り憑かれていた。「戦争と混乱は『侵略国』のもたらすものであり、いわゆる『平和愛好国』が、いわゆる『侵略国』の勢力を破壊すれば、永続的な平和と秩序が実現される」と思い込んでいたのである。
 ハレーによると、「米英両国民にとって、第二次大戦は第一次大戦にもまして善悪の勢力の争いであった」。片や「侵略国」、片や「平和愛好国」の争いであった。「侵略的な」日本と「平和愛好的な」日本、「侵略的な」ドイツと「平和愛好的な」ドイツという多様な現実は捨象され、日本の生きた男、女、子どもたちは、侵略を本質とする日本国民に抽象化され、単純化された。とくに不幸だったのは、日本やドイツは政体の如何を問わず本質的に「侵略国」と規定されたことである。
 「もし米国人が世事にたけていたら、現実の世界は本質的に『平和愛好的』な国民と、本質的に『侵略的な』国民に分かれているのでないことに気がついたであろう。そしてドイツであると米国であるとを問わず、あらゆる国家において、善と悪が勢力争いを行っていることに気づいたであろう。その場合、米国は、ドイツの『平和愛好』勢力がナチを打倒し、『平和愛好』勢力の指導するドイツと、真の和解と平和を実現することを目的としたであろう」と、ハレーは述べている。
 これはまことに卓見というよりも、ごく当たり前の常識と思われるが、この常識が通らぬくらい世界は「侵略国」対「平和愛好国」という政治神話に汚染されてしまっていたのだ。
 その結果は惨澹たるものだった。大戦終結後、東ヨーロッパと東アジアに力の真空が生まれ、共産圏は膨張し、冷戦となった、というのがハレーの結論である。まさにその通りなのだが、「侵略国」対「平和愛好国」という政治神話が歴史に刻みつけた汚点はそれだけにとどまらない。少なくとも以下の三つは、「侵略国」の汚名を着せられた日本国民のひとりとして指摘しておきたい。
 (一) 日本国そのものの抹殺が戦争目的に掲げられたために、日本国内の「平和愛好」勢力の形成は意味を失い、「侵略」勢力は妥協の術なく「本土決戦」に追い込まれた。日本政府は昭和十九年末から二十年にかけて和平交渉を示唆し、米英両国へアプローチしたが、すべて無視されている(ハレー『歴史としての冷戦』)。連合国にとって日本は交渉の対象でなく、ただ破壊の対象だったのだ。
 日本がドイツのように全面的な破壊を免れたのは昭和天皇ヒトラーとの違いによる、といえる。ヒトラーと違い、昭和天皇は強力な求心力をなお国民の間に保持しており、天皇の裁断によって一糸乱れぬ降伏となった。硫黄島玉砕や特攻隊などの日本軍の必死の抗戦が、日本の完全破壊を米軍に躊躇させたこともつけ加えておくべきだろう。玉砕や特攻隊作戦は日本の完全破壊を阻止する役割を、立派に果たしたのである。
 (二) 戦争目的が平和の回復でなく、「侵略国」日本の抹殺におかれた結果、戦闘員、非戦闘員の別なく無差別殺戮が実行された。戦略爆撃、機銃掃射、艦砲射撃、原子爆弾等々、まさに史上最大の絶滅戦争となったのだ。しかもこれらの殺戮を行った連合国は「平和愛好国」だったという理由で一切責任は問われず、免罪になった。悪いのはすべて「侵略国」よ、というわけだ。そのために第一次大戦ではまだ見受けられた戦争そのものへの深刻な問いかけはほとんど発せられず、戦後世界の道徳的退廃を目に余るものとした。連合国が対日戦勝五十周年記念式典を臆面もなく挙行しようとしている理由もここにある。もし連合国があの戦争について深刻に反省し、「平和愛好国」として世界の平和をめざしているのなら、とうてい戦勝記念式典なぞやれないはずである。
 (三) ケナンは「ある意味では、人の心を征服しないかぎり、全面勝利というものは相手国民を全部殺戮する以外にないわけである」といっている。「侵略国」日本の抹殺という戦争目的を放棄しない以上、戦争は継続される。軍事制裁は第一段階である。第二段階は「人の心の征服」である。そこで政治・経済・教育・文化制裁が丸腰の日本に次々としつこく加えられた。
 それが日本の戦後であった。(p111)