アメリカの歴史と経済思想

『悪夢のサイクル』内橋克人

 アメリカでは一九二〇年代まで、アダム・スミスが説いたような、市場にすべてを任せるという古典派自由主義経済学的な政策がおこなわれていました。(p84)


 一九二〇年代になると投機ブームになり、株価や地価が高騰します。しかし行きすぎたバブル経済の反動で、一九二九年に大恐慌が発生します。
 この大恐慌という「市場の失敗」がアメリカ政府や経済学者に与えた衝撃は非常に大きく、それを機に経済の節度ということが説かれはじめます。(p84)


 ケインズが唱えた公共政策とは、資本家や大企業がその優越的な力で市場をほしいままに利用することを政府が規制し、不況に対しては政府が財政投資と公共事業によって雇用を確保することでその悪影響を緩和し、累進課税を強化し社会福祉を充実することで、富者から貧者への富の再分配をおこなう、といったものです。(p85)


 ところがアメリカでは六〇年代の後半から七〇年代の初めにベトナム戦争に失敗し、戦費の負担から財政が悪化、インフレ率・失業率が上がっていくという事態が起きます。七〇年代以降、ケイジアンが主張していた、公共政策によって失業率が下がり、民間経済もうまくいくというメカニズムが機能しなくなってきたのです。
 その頃に目立っていたのは市場の失敗ではなくて、政府の失敗でした。公共政策が長年続くうちに、政府の公共事業部門が肥大化し、重税と大きな政府につながってゆく。その失敗が露わになって、企業家はもとより一般市民からも反撥が高まっていた時期にフリードマンが出てくるわけです。(p86)


 特にケイジアンが困ったのは、失業率とインフレの関係でした。ケイジアンたちは、インフレ率と失業率はトレードオフの関係にあると考えていたのです。つまり、「失業率を低下させようとすればインフレーションが発生」し、「インフレーションを抑制しようとすれば失業率が高くなる」と考えており、これをフィリップス曲線と呼んでいました。
 このフィリップス曲線によれば、インフレ率が上がれば、失業率が下がるはずなのに、七〇年代には、かならずしもそうとはいえなくなっていたのです。インフレ率、失業率ともに上昇傾向にありました。しかし、ここで、もし、インフレ率を下げるために、公定歩合を上げれば、失業率はもっと高くなる、とケイジアンは考えたのです。
 フリードマンは違いました。インフレを退治するためには、貨幣の供給量を減らすしかないと考えました。貨幣の供給量によってのみ経済はコントロールできる、公共事業や福祉事業による需要創出効果は、無駄である、というこの考えをマネタリズムとも呼びます。(p87)


 一九七九年一〇月にアメリカの中央銀行FRB議長ポール・ボルガーは、ケイジアン的アプローチからマネタリスト的なアプローチに政策を大転換します。貨幣供給量を減らし、利子率の急上昇を許し、失業率を高めてでもインフレをおさえこもうとしました。
 このマネタリスト的な実験は劇的な効果を発揮したようにみえました。
 インフレ率は、一九八〇年末の一三パーセントから一九八四年の四パーセントまで劇的に下がります。
 ケイジアンたちが予想したように、失業率も上がります。六パーセントから、一九八二年末には一〇・五パーセントという水準にまで跳ね上がりました。
 しかし、いずれにせよ、マネタリスト的実験は、一九七〇年代のケイジアンたちが処置しようのなかったインフレを見事におさえこんだのです。
 このことによって、政権中枢のエコノミストの椅子から、ケイジアンたちは去ることになり、かわりに、マネタリストたちすなわち市場原理主義者たちがその椅子に座ることになったのです。
 一九八七年から二〇〇六年までFRB議長をつとめたアラン・グリーンスパンも六〇年代から、マネタリスト的なアプローチを信じていた一人でした。というより、彼自身も認めているように、ミルトン・フリードマンの信奉者だったのです。傍流だった彼が、やがて政府委員会などの議長をつとめるようになり頭角を現すようになったのも、このマネタリスト的実験が成功した後のことです。
 そして彼は、ボルガーのあとを継いで、一九八七年から実に一八年と半年にわたってFRB議長をつとめることになったのです。(p87)


 レーガン、ブッシュの共和党政権に続いて、九三年に発足した民主党クリントン政権も、それまで民主党の伝統であったリベラリズム路線を捨てて市場原理主義を採り、ゴールドマン・サックスの会長であったロバート・ルービンを財務長官に迎えます。
 これによってシカゴ学派の優位は決定的になり、アメリカ中の大学やビジネススクールフリードマン流の自由主義経済学が教えられるようになります。IMF(国際通貨基金)やWTO(世界貿易機関)、世界銀行といった国際機関や世界各国の官庁や中央銀行自由主義経済学の洗礼を受けた卒業生が送り込まれ、「グローバリズム」の名の下に世界各国に市場原理主義を広めてゆくわけです。
 とりわけフリードマンが教鞭を執るシカゴ大学は、新古典派自由主義経済学の思想的中心として世界の注目を集める存在となっていったのでした。(p90)