人間と自然の「交換」

『世界史の構造』柄谷行人 岩波現代文庫

 もっと根本的にいえば、地球環境は、大気循環と水循環を通して、窮極的にエントロピーを廃熱として宇宙の外に捨てることによって、循環的なシステムたりえている。この循環が妨げられれば、廃物あるいはエントロピーが蓄積されてしまう。人間と自然の「物質代謝」は、地球全体の「物質代謝」の一環として存在する。人間の生活は、このような自然の循環から資源を得て、廃物を自然の循環の中に返すかぎりにおいて維持できる。資本制工業生産が始まるまで、人間による生産がエコシステムを決定的に破壊することはなかった。人間が生み出した廃棄物は自然によって処理されてきた。それが人間と自然の物質的交換(代謝)ということである。
 ところが、「生産」は一般に、廃棄物を無視して考えられている。そして、その創造性のみが評価される。ヘーゲルのような哲学者がとらえてきた生産とは、そのようなものだといってよい。しかし、そのようなヘーゲルの考えを観念論だといって攻撃したマルクス主義者も、実は、生産を唯物論的に見ることがなかったのだ。つまり、彼らは生産が廃棄物および廃熱を伴うことを考えてこなかった。だから、彼らは生産を肯定的にのみとらえてきたわけである。そして、悪いのは、人間による人間の搾取、あるいは階級支配である、と。
 その結果、一般的に、マルクス主義者は、生産力あるいは科学技術の進歩に関してナイーブにも肯定的であった。だから、エコロジストがマルクス主義者を批判するのは、的はずれではない。しかし、マルクスはそうではなかった。彼は『資本論』で、資本主義的な農業が、「人間と土地の間の代謝を、すなわち、人間が食料と衣料の形態で消費する土壌成分の土地への復帰を、したがって永続的土地豊度の永久的自然条件を攪乱する」と指摘している。彼はその裏づけを、化学肥料型の農業の創始者であると同時にそれを批判し循環型の農業を最初に提唱したドイツの化学者リービッヒから得たのである。

 資本主義的農業のすべての進歩は、労働者から掠奪する技術の進歩であるのみではなく、同時に土地から掠奪する技術の進歩でもあり、一定期間土地の豊度を高めるすべての進歩は、同時にこの豊度の永続的源泉の破壊の進歩である。たとえば、北アメリカ合衆国のように、一国がその発展の背景として大工業から出発するならば、それだけこの破壊過程も急速になる。それゆえ、資本主義的生産は、同時に、あらゆる富の源泉である土地と労働者とを滅ぼすことによってのみ、社会的生産過程の技術と結合とを発展させるのである。

 マルクスはここで、産業資本が労働者を搾取するだけでなく、いわば自然を搾取=開発(exploit)すること、それによって「土壌と人間」という自然を破壊してしまうことを批判したのである。彼はさらに、つぎのように述べた。《要するに結論は、農業についての別の考察によっても到達されうるところであるが、こうである。すなわち、資本主義体制は、合理的農業に逆らうということ、または、合理的農業は、資本主義体制と両立しえないものであって(後者は前者の技術的発達を促進するとはいえ)、みずから労働する小農民の手か、または結合された生産者による規制かを、必要とするということ》。この構想は、資本主義的大農場だけでなく、国営の大集団農場という考えとも異なるものだ。ここで、マルクスは、農業経営が小生産者たちのアソシエーション(連合)であるべきだといっているのである。(p29)