ベトナム枯葉作戦

モンサント』マリー=モニク・ロバン

 時に戦争は、新たな製品を生み出す契機になる。そこで生まれた製品は、その後の数十年の間に、多国籍化学企業にとって大きな利益になった。たとえば、DDTもそのような製品の一つである。DDTの化学合成は、すでに一八七四年に実現していた。しかし、DDTが脚光を浴びたのは、第二次世界大戦時のアメリカ軍のおかげである。当時の西ヨーロッパでは、シラミのせいでチフスが大流行し、兵士が大量に死んでいた。アメリカ軍は、チフスの流行を終わらせるために、現在では禁止されているDDT殺虫剤を使用した。また南太平洋では、マラリアを媒介する蚊を根こそぎするために、DDTが使用された。
 一九四四年から、モンサントDDTの大規模な生産に踏み切っている。この時、モンサントペンタゴンの戦略家たちとの結びつきは、とくに緊密になった。……
 一方、モンサントの化学者たちは、チャールズ・トマスの指揮のもと、細かい作業に取り組んでいた。それは、原子爆弾の起爆装置の材料に使うプルトニウムポロニウムを抽出し、純化する作業であった。モンサントペンタゴンから絶対的な信頼を受け、この重要な仕事をオハイオ州デイトンにある研究所で行なう許可を得た。(p70)


 戦争が終わり、モンサントの副社長に昇進したチャールズ・トマスは、クリントン研究所のリーダーを務めるようになった。そこで彼は、アメリカ政府のバックアップを受け、核の民生利用[原子力発電などをさす]を進める役割を担った。しかし同時に、彼はモンサントでの職も維持していた。彼の最終的な職歴は、モンサント代表取締役である(一九五一~六〇年)。その当時、モンサントは、世界でもっとも有力な化学グループの一つになっており、モンサントの歴史で最大の契約を実行しようとしていた。すなわち、ベトナム戦争のための「オレンジ剤」の生産である。(p71)


 「〔除草剤の使用は〕アメリカ軍の歴史上、ランチハンド作戦だけでした。おそらく、これからも使用されることはないでしょう」
 一九七五年四月、フォード大統領は、合衆国がその後の戦争において、除草剤の使用を放棄することを公に宣言した。ウィリアム・バッキンガム少佐は、一九八二年にアメリカ空軍歴史局から出版した「一九六一年から一九七一年の東南アジアにおける除草剤」の使用に関する著作の中で、こう書いている。「この政策が維持されるかぎり、ランチハンド作戦のような出来事は二度と繰り返されることはあるまい」
 この本でバッキンガム少佐は、慎重にも、南ベトナムでの枯葉剤の大量撒布が人間の健康と自然環境に与えた影響について触れることを避けている。それでも、この著作は役に立つ。というのも、この著作は枯れ葉剤がもたらす医学的問題を明らかにしただけではなく、「ランチハンド」(直訳すれば「農夫」)という控え目な名前をつけられたベトナムの化学戦争によって、ダウ・ケミカルモンサントのような多国籍企業が、どれほど大きな利益にあずかることになったのかを示唆しているからだ。(p72)


 一九四〇年代、空軍は撒布用タンクを完成させた。それは軍の飛行機に据え付けられ、西ヨーロッパと太平洋でDDTを撒くことを目的としていた。空軍歴史局に所属するこの著者は、「生命を守るためだ」と強調する。彼はこう言っている。「連合軍と枢軸国は、敵に対して、この兵器を使用することを断念した。それは法律上の制限のためであり、また、報復処置を避けるためでもあった。
 このタブーがベトナム戦争で撤回されたのは、次の二つの要因によると思われる。一つめの要因は、冷戦である。つまり、共産主義の脅威を終わらせるためなら、どのような手段に訴えることも正当とみなされたのである。二つめの要因は、2,4-Dと2,4,5-Tという革命的な除草剤の発明である。(p73)


 この薬品が初めて実戦に投入されたのは、一九五九年の南ベトナムである。アメリカ軍の映像音響部局は、この新兵器の利用を記録しておくのがよいと考え、二年間にわたって映像で記録した。この異例の記録を、私は閲覧することができた。映像には、アメリカの軍用機が、原生林のすぐ上まで降りていき、乳白色の霧を投下していた。その霧は、軍用機の軌跡に沿って一直線に延びていく。そして画面に註釈が入る。「二週間後、この作戦の効果が明らかになった。そして二年間で森林の九〇%をなくすことができた」。空からのショットには、森に生い茂っていた植物の間に、数キロメートルにわたる裂け目が映っている。この除草剤撒布の映像は――ベトナムの路上を裸で走る少女キム・フックの映像のようなナパーム弾の犠牲者の映像とともに――、二〇世紀でもっとも異議を唱えられた戦争の象徴となるだろう。
 ランチハンド作戦は、公式には一九六二年一月一三日に開始されたことになっている。それは、ジョン・F・ケネディが大統領になった一年後のことである。空軍歴史局の著作によれば、国防総省国務省のアドバイザーたちが議論を重ね、最後に大統領自身が結論を下したと書かれている。(p74)