見ろ、この大地を

『鎮守の森』宮脇昭 新潮文庫

 一ヵ月ほど経って、思い切ってチュクセン教授に私は申し出た。「チュクセン先生、私はもう少し科学的な研究をしたいと思います」当時の植生学、植物社会学の世界的権威であり、自分の研究態度を戦時中も毅然として貫いてきたチュクセン教授は、白いヤギひげに青い目の眼光鋭く、最後のゲルマン古武士を思わせる。
 教授はじっと私の目を見ながら言った。
 「科学的な研究とは何か」
 「たとえばボン大学でこの論文もあの論文も読みたい。またベルリン工科大学であの教授の話も聞きたい」と言うと、チュクセン教授は「お前はまだ本を読むな。書いてあるのはだれかが書いたやつの引き写しかもしれんぞ。お前はまだ人の話を聞くな。だれかのしゃべったことの又聞きかもしれないぞ。見ろ、この大地を。地球上に生命が誕生して三九億年、巨大な太陽のエネルギーのもとに、人間活動によるプラスやマイナスの影響も加わった、ドイツ科学研究財団が何千万マルクの科学研究費をくれてもできない本物の命のドラマが展開しているではないか。お前はまず現場に出て、自分の身体を測定器にし、自然がやっている実験結果を目で見、手で触れ、匂いをかぎ、なめて、触って調べろ」と言われた。
 その言葉を私は肝に銘じた。以来四〇余年、現地植生調査にあけくれして今日にいたっている。(p30)


 潜在植生の概念を最初に教授から聞いたのは、ちょうど私の雑草群落の研究がまとまったころだった。ウェザー川沿いのブナ林のなかで教授はこう言った。
 「きみの雑草群落の研究は素晴らしい。しかし、雑草はおれの顎髭みたいなものだ。剃るから生える、取るから生えてくる。そうやって雑草は農耕文明とともに今日まで生き延びてきた。雑草の研究も大事だが、その土地の本来の植生を支える能力を読みとることが大事だ。今は、雑草群落や二次林で被われているが、その土地本来の緑―植生―は何かを読みとる。これからはそれぞれの土地がどのような植生を支える能力をもっているかという、すぐには見えない可能性をもっと見極める必要がある」
 しかしこれが、現場に出てもなかなか読み取れない。数千年来のゲルマンの自然との対決、過放牧や火入れ、農耕などによって土地本来の森はほとんど失われている。いわば人間によって厚化粧をほどこされたような状態のなかで、自然が発しているかすかな情報から見えない素顔をどうやって読みとるのか。
 そこである日、どうも潜在自然植生の概念は少し忍術がかっているのではないかと大変失礼な表現をしたところ、チュクセン教授は忍術の意味の説明を笑いながら聞き、あとはまじめにこう言った。
 「現代の人間には、二つのタイプがある。見えるものしか見ようとしないタイプが半分。この人たちは計量化できる要因をコンピューターにインプットして、その資料からいろいろな判断をしていく。経済効果を求めたり、一面的な対応をするには非常に効率がよく、モダンに見えるかもしれない。しかし案外長もちしないぞ。もう一つのタイプは、見えないものを見ようと努力をするタイプだ。実は現代の科学技術で計量化でき、見通せるものはまだまだ少ない。むしろ我々はコンピューターにインプットできない見えないものを見る努力をこそするべきだ。それが生物の、そして人類の最後に残された英知ではないか。君は見えないものを見る努力をするタイプとおれはにらんでいる」
 こう脅迫されたりおだてられたりしているうちに、二年余の留学期間が過ぎようとしていた。
 「まだお前は本物になっていない。少なくともあと一年は要る」「今、お前が日本に帰って、おれの植物社会学的な自然観、研究調査方法で進めても、すぐ壁に突き当たるであろう。きっと挫折する。またチュクセンに学んだと言って日本でやられたら、こっちの名がすたる。まだお前は本物になっていない」とチュクセン教授からはきびしく諭されたが、結局三年経ったらもう一度ドイツに来るという条件で、一九六〇年の一二月末に帰国することになった。(p44)