貿易自由化の名の経済戦争(世界農民の衰亡)

『自然に還る』福岡正信

 この数年ガットのウルグアイラウンド、貿易自由化の問題が、近々決着しそうな情況が鮮明になるにつれ、各界の意見も、本音もみえだしました。日本では、貿易自由化で最大の難問は、農作物の自由化であり、すでに肉、果実の自由化がなされた今、農民の最後のトリデと考えられる米が自由化されると、日本の農業は崩壊するのではないかと考えられます。
 だが、最近のニュース、新聞、政府、経済界の本音は、一致して自由化推進にあるのです。(p440)


 このような基本的問題を話す前に、私は一言いっておきたいことがあります。
 食料品は、本来商品化を目的とする物品ではない、という点です。
 真に役立つ食品は、本来自然の産物で、各国の自然風土が産み出したもので、その地に生れた人間とは、切っても切れない、即ち身土不二のものなんです。民族にとってその郷土の自然食品が、最善の健康食であることは、昔も今も、いつの時代においても、不変の真理です。
 だから、各国が自給自足を目ざすことは、単に国の安全確保のためというより、民族の文化、生き方、働き、宗教に直結する命綱なのです。(p441)


 食物は、地上にふりそそぐ太陽エネルギーの産物で、植物の葉の葉緑素による炭素同化作用で造られた澱粉が食糧になるのです。したがって、作物の収穫量は、どこでも、何でも、太陽エネルギーが収量の制限因子になって、上限を超えることはできないとともに、単位面積当りの収量は同じです。
 一定の限度以上は、「収益逓減の法則」により漸減して、生産性はむしろ低下します。
 科学農法が、いくら増産を目ざして石油資材エネルギーを投入しても、収量が上らないのみか反対に低下し、危険性が増大する結果に終わるのはそのためです。
 科学の力で、生産増強とか、効率が高められるように安易に思う人も多いのですが、巨視的にみれば、農業では増収策というのは本来なかったのみか、反対に自然破壊で、生産母体の自分の大地の首をしめていただけなのです。(p442)


 自然を生かした自然農法が、科学農法と同じ収量になるのは、理の当然なのです。
 要は、人間は自然を破壊し、収量が低下する条件を整えておいて、その分を取り返すために、肥料や農薬を使っているだけなのです。科学者は、増収策を研究しているつもりで、実際は減損防止策を練っていただけなのです。その証拠は今も昔も米の収量は十俵どまり、という事実です。
 この原理は、あらゆる科学物質や技術開発についてもいえることで、その物、技術を必要とする条件を人間が生ぜしめたとき、それに価値が生ずるだけです。(p443)


 科学の力で食糧が増産されるのではないと判ると、先進国と後進国、北と南の国で食糧の生産力に差がある、価格差があるというのが間違いであることが判ります。多くの場合、農民の技術が劣る、資金・資材が無いからでなく、その国の政治の混乱や経済事情で、田畑が荒廃し、生産が上がらないだけです。(p443)


 今や多国籍企業とか、巨大商社は、意のままに、豊富なものは安くたたいて買い、乏しい国の人に高く売りつけることができます。
 物資の円満・均等な流通を目ざす者などいません。むしろ物の過不足があり、物価が乱高下する方が、儲け易くて好ましい情況なのです。(p445)


 白い米の自由貿易は単に口実で、むしろ、種子戦争といわれる種子が目的ではないのか。口では民主主義・平等・自由をうたいながら、全世界の下層の農民の崩壊をまねくような、自由貿易は、農産物輸出大国の独占を助長するばかりと考えられます。(p445)


 自由貿易といえば、普通貧しい国を助けるのに役立つように思えます。しかし実際の貿易の実態は、そんな甘いものではない。貿易の正体を、私はむしろ海外で知らされました。
 貿易の実体は何か、歴史的にみると、それは地球規模の世界経済支配戦略の一環であったのではないか。今二十一世紀のリーダーを目ざす国、権力者が、一致して欲しがるものは何かといえば、(1)武力(その象徴が原爆) (2)資源(石油) (3)農産物の種子、といわれます。
 ロシア解体は原爆競争と種子戦争に負けたためといわれます。イラク戦争は、石油権争奪戦であったとも聞きます。一口にいえば、表向き民主主義、国際主義民族主義といっても、裏面では経済制覇の葛藤が続き、その有効な戦術の一断面が自由貿易の名の侵略であります。
 私はなぜアフリカ全体が簡単に武力侵略に屈伏し、植民地になったのか不審でしたが、ソマリアなどを廻って、欧州人従属の重要要素になったのは、武力より、貿易立国の美名による植民地化政策による自然破壊、農業崩壊であったと考えるようになりました。
 具体的にいえば、国を富ますためといって、外貨を獲得するために有効な作物が奨励された。その対象はコーヒー、紅茶、砂糖、コーン、ピーナツ、綿に限られ、他の自給用の穀物や野菜は栽培が禁止されたことに始まるのです。
 自給用の作物の種がなくなれば、否応なく農民は支配者の命ずるままに有利な作物だけを作らざるをえなくなります。その時、貿易商品でもうけるのは、価格決定権や水利権をもつ、西欧人のみで、貿易商品のみ作らされる農民は、単一作物の連続で衰亡せざるを得ない大地相手だから、次第に生活も苦しくなるだけなのです。
 私が今のアフリカには緊急用の食糧援助とともに、自立・自給作物用の種を贈りたいと思うのも、そのためです。種さえあれば、エチオピアケニアも果樹、野菜、穀物の宝庫になります。
 かつてフィリピンが、米国の植民地になったのも、米作を放棄して、貿易商の甘言にのり、砂糖やコーヒー、花造りに転換したのが、出発点だったと聞きます。(p445)


『〈自然〉を生きる』福岡正信

 福岡 今度うちのおコメから稲から、横浜や松山の種苗店や、千葉県の育種農場から多量の野菜の種をもらって、それらをソマリアエチオピアタンザニアの三ヵ国に送ることになっているんですが、この一粒から必ず緑がよみがえるという見込みは百パーセントと言っていいぐらいあるんです。あるんだけれども、送っても蒔いてくれる人がいないんです。
 向こうの自給自足とか自活生活に対して政府や何かはまったくそっぽを向いています。食糧を与えるから、綿を作れ、とにかくコーヒーや紅茶を作っていればいいという政策です。だから砂漠に種を蒔くなんてことは夢みたいに見えるけれど、しかし、できないはずはないんです。どうしてそういうことをやらないのか。ただ、目先の食糧援助や医療の援助だけに終始するのか。(p63)