不思議なほどすらすら分かる

紫式部日記』山本淳子 訳注 角川ソフィア文庫

 うちの式部の丞と申します者が、まだ子供で漢籍を朗読しておりました時、私はいつもそれを聞いては、弟は暗唱するのに時間がかかったり忘れてしまったりいたしました所も、不思議なほどすらすら分かったのです。ですから学問熱心だった父は、
 「残念だな。お前が息子でないのが、私の運の悪さだよ」といつもお嘆きでしたわ。
 ところが、やがて誰かが「男ですら、漢文の素養を鼻にかけた人はどうでしょうかねえ。皆ぱっとしないばかりとお見受けしますよ」と言うのを聞きとめてからというもの、私は「一」という字の横棒すら引いておりません。本当に不調法であきれたものなのでございます。(p290)


 いっぽう『紫式部日記』には同母弟の惟規とのエピソードが書きとめられている。弟が漢籍素読・暗唱する傍らでそれを聞いていて、紫式部のほうが「あやしきまでぞさとく」習得してしまったという思い出話である。門前の小僧さながらであるが、父は「お前が男子でないのが私の不運だ」と嘆いたという。当時漢字は、男性にとっては官人世界での出世の手掛かりになり得たが、結婚し「里の女」として生きる女性にとっては疎遠なものだった。(p328)