おいらかに

紫式部日記』山本淳子 訳注 角川ソフィア文庫

 雰囲気良く、すべて女房は人当たり穏やかに、少し心構えに余裕を持ち、落ち着いているのを基本としてこそ、教養も風情も魅力となるし、安心して見ていられるものです。或いは一見色っぽく浮ついていたとしても、本性の人柄が素直で、傍から見ていられないことさえしなければ、毛嫌いはされますまい。
 「我こそは」と変に振る舞う習慣がつき、態度が大仰になってしまった人は、日常の起居につけて、見る方も自然に特別な目で見てしまいます。ですからその女房には注目が集まります。注目が集まれば必ずや、物を言う言葉の中にも、こちらへやって来て座る動作、向こうへ立って行く後ろ姿にも、本当に必ずや欠点が見出されるものでございます。まして、言うことが多少食い違うようになってしまった人と、人のことをけなし見下す人とは、壁に耳あり障子に目ありであら探しされるものでございます。(いっぽう)相手に癖のない限りにおいては、つまらない噂が流れたとしても何とかして本人の耳には入れまいと包み隠し、かりそめであろうと情けをかけてやりたい気持ちになるものです。
 自らわざと嫌なことをしかける人は、(別の機会に)その人がうっかりまずいことをしでかした際にも、嘲笑うのに躊躇なんか感じません。とても心のきれいな人なら、自分を誰かが嫌っても、なお自分からは相手を思いやり面倒をみるかもしれませんが、普通はなかなかそうもできません。慈悲深くていらっしゃる仏様でさえ、仏法僧の三宝をけなす罪を、浅いとお説きでしょうか、そんなことは聞いたことがありません。まして況や、こんな濁りきった俗世の人間ですもの、自分を堪えがたい目にあわせる人のことはやはり堪えがたくしか感じられません(そんな相手に寛容になどなれるものですか)。
 (ただ)そんな人に対して、言い勝とうとひどい言葉を投げつけたり、差し向かいで険悪な眼でにらみ合ったりする(ような表立った対決姿勢をとる)のと、そうでなくて心に秘め、うわべは穏便にすますのと、その違いにこそ心の品格が見て取れるというものでございます。(p288)