保守側の知識人

『決定版 三島由紀夫全集36』

 新知識人論

 日本近代知識人は、最初からナショナルな基盤から自分を切り離す傾向にあつたから、根底的にデラシネ(根無し草)であり、大学アカデミズムや出版資本に寄生し、一方ではその無用性に自立の根拠を置きながら、一方では失はれた有用性に心ひそかに憧憬を寄せてゐる。そこに知識人の複雑なコンプレックスがあり、こんなに扱ひにくい人種はちょつと想像もできない。
 知識人の自立を尊重するふりをしながら、その大衆操作の有用性をうまく利用し、かたがた彼らの有用性へのひそかな憧れを充たしてやつた点では、政府よりも左翼のはうが何十倍も巧みであつた。戦後の知識人の役割が、九割方、左翼の利用するところとなつたのは周知の事実であり、それなりに効果をあげたのである。
 大学問題の勃発は、しかし、このやうな安定した進歩的知識人の天国に打撃を与へた。彼らの足もとに火がつき、周章狼狽なすところを知らず、有用性の幻想は破壊されつつ、無用性の自立もすでに白昼夢となつた。進歩的知識人は瓦礫と化した。
 しかしかれらの偽善の皮が剥がれたとき、拍手してゐるいはゆる「体制側」の知識人が、これからも無疵でゐられるかどうか、私ははなはだ疑問に思つてゐる。なぜなら保守側の知識人といへども、知識人である限り、その体質、そのメンタリティー、その非行動性、そのバランス感覚においては、左派の知識人と五十歩百歩であるからである。大学問題を通じて、私は、権力側が、知識人といふ厄介な存在を、善玉悪玉二つに分けるのに、願つてもない好機を発見してゐるのを感じた。(p40)