太宰治

『小説家の休暇』三島由紀夫

 私が太宰治の文学に対して抱いている嫌悪は、一種猛烈なものだ。第一私はこの人の顔がきらいだ。第二にこの人の田舎者のハイカラ趣味がきらいだ。第三にこの人が、自分に適しない役を演じたのがきらいだ。女と心中したりする小説家は、もう少し厳粛な風貌をしていなければならない。
 私とて、作家にとっては、弱点だけが最大の強みとなることぐらい知っている。しかし弱点をそのまま強味へもってゆこうとする操作は、私には自己欺瞞に思われる。どうにもならない自分を信じるということは、あらゆる点で、人間として僭越なことだ。ましてそれを人に押しつけるにいたっては!
 太宰のもっていた性格的欠陥は、少くともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だった。生活で解決すべきことに芸術を煩わしてはならないのだ。いささか逆説を弄すると、治りたがらない病人などには本当の病人の資格がない。
 私には文学でも実生活でも、価値の次元がちがうようには思われぬ。文学でも、強い文体は弱い文体より美しい。一体動物の世界で、弱いライオンのほうが強いライオンよりも美しく見えるなどということがあるだろうか。強さは弱さよりも佳く、鞏固な意志は優柔不断よりも佳く、独立不羈は甘えよりも佳く、征服者は道化よりも佳い。太宰の文学に接するたびに、その不具者のような弱々しい文体に接するたびに、私の感じるのは、強大な世俗的徳目に対してすぐ受難の表情をうかべてみせたこの男の狡猾さである。
 この男には、世俗的なものは、芸術家を傷つけるどころか、芸術家などに一顧も与えないものだということが、どうしてもわからなかった。自分で自分の肌に傷をつけて、訴えて出る人間のようなところがあった。被害妄想というものは、敵の強大さに対する想像力を、強めるどころか、却って弱めるのだ。想像力を鼓舞するには直視せねばならない。彼の被害妄想は、目前の岩を化物に見せた。だからそいつに頭をぶつければ消えて失くなるものと思って頭をぶつけ、却って自分の頭を砕いてしまった。
 ドン・キホーテは作中人物にすぎぬ。セルヴァンテスは、ドン・キホーテではなかった。どうして日本の或る種の小説家は、作中人物たらんとする奇妙な衝動にかられるのであろうか。(p17)