蓮田善明とその死

『決定版 三島由紀夫全集36』

 「蓮田善明とその死」序文

 文人の倖は、凡百の批評家の賛辞を浴びることよりも、一人の友情に充ちた伝記作者を死後に持つことである。しかもその伝記作者が詩人であれば、倖はここに極まる。小高根二郎氏のこの好著を得て、蓮田善明氏は、戦後二十年の不当な黙殺を償つて余りある、文人としての羨むべき幸運を担つた。私はほとんどこれを嫉視する。小高根氏が蓮田氏の愛と死について語る筆致は、清澄高雅で、毫も死者の霊を傷つけず、生き残つた者の不遜を免かれ、資料はあくまで正確でありながら実証主義の卑賤に陥らず、無礼な分析を避けて綜合的な人間像を晴朗に浮ばせ、それ自体が一個の文学作品として魂を搏つ無類の品格と迫力を併せ備へてゐる。このやうな作品を小高根氏をして書かせたものこそ、蓮田氏の徳であり、又、その運命の力である。しかも蓮田氏の生前、小高根氏との交遊が浅かつたことを考へれば、この作品に好い意味でも悪い意味でもみぢんも私心のないことが首肯され、蓮田氏の文業とその謎の死が、この著作を内的な自然な衝動を以て促したことがすぐ見てとれるのである。
 蓮田氏の文業とその壮烈な最後との間には、目のくらむような断絶があり、コントラストがある。終戦直後、蓮田中尉がその聯隊長を通敵行為の故を以て射殺し、ただちに自決したといふ劇的な最後を遂げたとき、これを伝へ聞いた蓮田氏の敵は、戦時中の右翼イデオローグのファナティシズムの当然の帰結だと思つたにちがひない。しかし少年時代に親炙した私にとつて、この死と私の知る蓮田氏のイメージとの間には、軽々に結び合はされぬ断絶があつた。
 ところで一個の肉体、一個の精神から出たものが、冥々の裡にも一本の糸として結ばれるといふ点については、蓮田氏の敵もまちがつてはゐなかつた。ただ敵は、そのやうな激しい怒り、そのやうな果敢な行為が、或る非妥協のやさしさの純粋な帰結であり、すべての源泉はこの「やさしさ」にあつたことを、知らうともせず、知りたいとも思はなかつただけである。
 少年時代に蓮田氏を知つた私の目からすれば、私は幸運にも蓮田氏のやさしさのみを享け、氏から激しい怒りを向けられたことはなく、ただその怒りが目の前で発現して、私にもよくわからぬ別の方向へ迸つてゐる壮観を見るばかりであつた。月に一度の「文芸文化」の同人会に、一少年寄稿家として出席を許され、そこで専ら蓮田氏に接した私の印象は、薩摩訛りの、やさしい目をした、しかし激越な憤慨家としての氏であつた。が、私は、詩人的国文学者としての氏を、古代から近代までの古典を潺湲と流れる抒情を、何ら偏見なく儒臭なく、直下にとらへて現代へ齎しうる人と考へてゐたから、氏の怒りの対象については関知するところでなかつた。
 氏はそのやうな人として現はれ、そのやうな人として私の眼前から去つたのである。
 「予はかかる時代の人は若くして死なねばならないのではないかと思ふ。……然うして死ぬことが今日の自分の文化だと知つてゐる」(「大津皇子論」)
 この蓮田氏の書いた数行は、今も私の心にこびりついて離れない。死ぬことが文化だ、といふ考への、或る時代の青年の心を襲つた稲妻のやうな美しさから、今日なほ私がのがれることができないのは、多分、自分がそのやうにして「文化」を創る人間になり得なかつたといふ千年の憾みに拠る。
 氏が二度目の応召で、事実上、小高根氏のいはゆる「賜死」の旅へ旅立つたとき、のこる私に何か大事なものを託して行つた筈だが、不明な私は永いこと何を託されたかがわからなかった。少くとも氏の最期を聞いたとき、それをすぐさま直感すべきであつた筈が、戦後私は小説家といふものにならうと志してゐて、青年のシニシズム(好んで青年が着るもつとも醜い衣裳!)で身を鎧ひ、未来に対しても過去に対しても、見ざる聞かざる言はざるの三猿を決め込んでゐた。
 それがわかつてきたのは、四十歳に近く、氏の享年に徐々に近づくにつれてである。私はまづ氏が何に対してあんなに怒つてゐたかがわかつてきた。あれは日本の知識人に対する怒りだつた。最大の「内部の敵」に対する怒りだつた。
 戦時中も現在も日本近代知識人の性格がほとんど不変なのは愕くべきことであり、その怯懦、その冷笑、その客観主義、その根なし草的な共通心情、その不誠実、その事大主義、その抵抗の身ぶり、その独善、その非行動性、その多弁、その食言、……それらが戦時における偽善に修飾されたとき、どのやうな腐敗を放ち、どのやうに文化の本質を毒したか、蓮田氏はつぶさに見て、自分の少年のやうな非妥協のやさしさがとらへた文化のために、憤りにかられてゐたのである。この騎士的な憤怒は当時の私には理解できなかつたが、戦後自ら知識人の実態に触れるにつれ、徐々に蓮田氏の怒りは私のものになつた。そして氏の享年に近づくにつれ、氏の死が、その死の形が何を意味したかが、突然啓示のやうに私の久しい迷蒙を照らし出したのである。
 あたかも私のかうした精神過程と時を同じうして、小高根氏が、一茎の野草のやうな謙虚な小冊子「果樹園」に、「蓮田善明とその死」を連載しはじめたとき、次号をおそしと待ちながら私が耽読したのは当然であろう。一行一行が私の心に触れ、ああ、さうだつたのか、なるほど、さうだつたのか、と二十数年後の今になつて、いちいち腑に落ちることも一再ではなかつた。そして私は、これを書いた小高根氏にただ感謝した。
 雷が遠いとき、窓を射る稲妻の光と、雷鳴との間には、思はぬ永い時間がある。私の場合には二十年があつた。そして在世の蓮田氏は、私には何やら目をつぶす紫の閃光として現はれて消え、二十数年後に、本著のみちびきによつて、はじめて手ごたへのある、腹に響くなつかしい雷鳴が、野の豊饒を約束しつつ、轟いて来たのであつた。(p60)