損得勘定

葉隠入門』三島由紀夫

 「勘定者はすくたるるものなり。仔細は、勘定は損得の考するものなれば、常に損得の心絶えざるなり。死は損、生は得なれば、死ぬる事をすかぬ故、すくたるるものなり。又学問者は才智弁口にて、本体の臆病、欲心などを仕かくすものなり。人の見誤る所なり。」(聞書第一 一三九頁)
 「葉隠」の時代には、現代インテリゲンチャに該当するものは、おそらくはなかった。しかし、現代インテリゲンチャの原型をなすような儒者、学者、あるいは武士の中にも、太平の世とともにそれに類するタイプが発生していた。それを常朝はじつに簡単に「勘定者」と呼んでいる。合理主義とヒューマニズムが何を隠蔽し、何を欺くかということを、「葉隠」は一言をもってあばき立て、合理的に考えれば死は損であり、生は得であるから、だれも喜んで死へおもむくものはいない。合理主義的な観念の上に打ち立てられたヒューマニズムは、それが一つの思想の鎧となることによって、あたかも普遍性を獲得したような錯覚におちいり、その内面の主体の弱みと主観の脆弱さを隠してしまう。常朝がたえず非難しているのは、主体と思想との間の乖離である。これは「葉隠」を一貫する考え方で、もし思想が勘定の上に成り立ち、死は損であり、生は得であると勘定することによって、たんなる才知弁舌によって、自分の内心の臆病と欲望を押しかくすなら、それは自分のつくった思想をもってみずからを欺き、またみずから欺かれる人間のあさましい姿を露呈することにほかならない。
 近代ヒューマニズムといえども、他人の死でなくて、自分の死を賭けるときには、英雄的な力を持つでもあろうが、そのいちばん堕落した形態は、自分個人の「死にたくない」という動物的な反応と、それによって利を得ようとする利得の心とを、他人の死への同情にことよせて、おおい隠すために使われる時である。それを常朝は「すくたるる」と呼んでいる。(p59)