天人五衰

天人五衰 豊穣の海(四)』三島由紀夫

 「手紙は御執事宛に差上げておきましたが、お目をおとおし下さいましたでしょうか」
 「はい。拝見いたしました」
 そこで言葉は途切れ、御附弟はそれをしおに、門跡をのこして消え入るように去った。
 「お懐しゅうございます。私もこの通り、明日をも知れぬ老いの身になりまして」
 と、手紙が読まれたことに勢いを得て、本多の言葉が軽佻な響きを帯びたときに、門跡はかすかに揺れるように笑った。
 「お手紙をな、拝見いたしまして、あまり御熱心やさかい、どうやらこれも御仏縁や思いましてな、お目にかかりました」
 本多の裡に、もはや一、二滴の余瀝のように残っていた若さが、これをきいて俄かに迸り出た。本多はあたかも六十年前、先代の老門跡に向って、次々と若さの熱情を打ち当てたあの日に還った。遠慮もかなぐり捨てて、こう言った。
 「清顕君のことで最後のお願いにここへ上りましたとき、御先代はあなたには会わせて下さいませんでした。それも致し方のないことだとあとでわかりましたが、その当時はお恨みに思っておりました。松枝清顕は、何と云っても私の一の親友でございましたからね」
 「その松枝清顕さんという方は、どういうお人やした?」
 本多は呆然と目を瞠いた。
 耳が遠いと云っても、聴き損ねる言葉ではなかった。しかし門跡のこの言葉の意味は、幻聴としか思われぬほど理を外れていた。
 「は?」
 と本多はことさら反問した。もう一度門跡に同じ言葉を言わせようと思ったのである。
 しかし全く同じ言葉を繰り返す門跡の顔には、いささかの衒いも韜晦もなく、むしろ童女のようなあどけない好奇心さえ窺われて、静かな微笑が底に絶え間なく流れていた。
 「その松枝清顕さんという方は、どういうお人やした?」
 ようやく門跡が、本多の口から清顕について語らせようとしているのだろうと察した本多は、失礼に亙らぬように気遣いながら、多言を贅して、清顕と自分との間柄やら、清顕の恋やら、その悲しい結末やらについて、一日もゆるがせにせぬ記憶のままに物語った。
 門跡は本多の長話のあいだ、微笑を絶やさずに端座したまま、何度か「ほう」「ほう」と合槌を打った。途中で一老が運んできた冷たい飲物を、品よく口もとへ運ぶ間も、本多の話を聴き洩らさずにいるのがわかる。
 聴き終った門跡は、何一つ感慨のない平淡な口調でこう言った。
 「えろう面白いお話やすけど、松枝さんという方は、存じませんな。その松枝さんのお相手のお方さんは、何やらお人違いでっしゃろ」
 「しかし御門跡は、もと綾倉聡子さんと仰言いましたでしょう」
 と本多は咳き込みながら切実に言った。
 「はい。俗名はそう申しました」
 「それなら清顕君を御存知でない筈はありません」
 本多は怒りにかられていたのである。
 清顕を覚えていないということは、もはや忘却ではなくて、白を切っていることでなければならない。もちろん門跡のほうに、清顕を知らぬと言い張るだけの事情があることは察せられても、俗界の女ならともかく、かりにも高徳の老尼が、白々しい嘘をつくことは、信仰の深みを疑わせるに足りるのみならず、ここまで来ても俗界の偽善にとらわれているとすれば、そもそも信仰に入ったときの回心が怪しまれるのだ。今日の面晤にかけた六十年の本多の夢も、この刹那に裏切られることになるであろう。
 門跡は本多の則を超えた追求にも少しもたじろがなかった。これほどの暑熱であるのに、紫の被布を涼やかに着て、声も目色も少しも乱れずに、なだらかに美しい声で語った。
 「いいえ、本多さん、私は俗世で受けた恩愛は何一つ忘れはしません。しかし松枝清顕さんという方は、お名をきいたこともありません。そんなお方は、もともとあらしゃらなかったのと違いますか? 何やら本多さんが、あるように思うてあらしゃって、実ははじめから、どこにもおられなんだ、ということではありませんか? お話をこうして伺っていますとな、どうもそのように思われてなりません」
 「では私とあなたはどうしてお知り合いになりましたのです? 又、綾倉家と松枝家の系図も残っておりましょう。戸籍もございましょう」
 「俗世の結びつきなら、そういうものでも解けましょう。けれど、その清顕という方には、本多さん、あなたはほんまにこの世でお会いにならしゃったのですか? 又、私とあなたも、以前たしかにこの世でお目にかかったのかどうか、今はっきり仰言れますか?」
 「たしかに六十年前ここへ上った記憶がありますから」
 「記憶と言うてもな、映る筈もない遠すぎるものを映しもすれば、それを近いもののように見せもすれば、幻の眼鏡のようなものやさかいに」
 「しかしもし、清顕君がはじめからいなかったとすれば」と本多は雲霧をさまよう心地がして、今ここで門跡と会っていることも半ば夢のように思われてきて、あたかも漆の盆の上に吐きかけた息の曇りがみるみる消え去ってゆくように失われてゆく自分を呼びさまそうと思わず叫んだ。「それなら、勲もいなかったことになる。ジン・ジャンもいなかったことになる。……その上、ひょっとしたら、この私ですらも……」
 門跡の目ははじめてやや強く本多を見据えた。
 「それも心々ですさかい」

 ――永い沈黙の対座ののちに、門跡はしめやかに手を鳴らした。御附弟があらわれて、閾際に指をついた。
 「折角おいでやしたのやし、南のお庭でも御覧に入れましょう。私がな、御案内するよって」
 その案内する門跡の手を、さらに御附弟が引くのである。本多は操られるように立って、二人に従って、暗い書院を過った。
 御附弟が障子をあけ、縁先へ本多を導いた。広大な南の御庭が、たちまち一望の裡にあった。
 一面の芝の庭が、裏山を背景にして、烈しい夏の日にかがやいている。
 「今日は朝から郭公が鳴いておりました」
 とまだ若い御附弟が言った。
 芝のはずれに楓を主とした庭木があり、裏山へみちびく枝折戸も見える。夏というのに紅葉している楓もあって、青葉のなかに炎を点じている。庭石もあちこちにのびやかに配され、石の際に花咲いた撫子がつつましい。左方の一角に古い車井戸が見え、又、見るからに日に熱して、腰かければ肌を灼きそうな青緑の陶の榻が、芝生の中程に据えられている。そして裏山の頂きの青空には、夏雲がまばゆい肩を聳やかしている。
 これと云って奇巧のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠を繰るような蝉の声がここを領している。
 そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
 庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。……(p298)