固有の思想

暁の寺 豊穣の海(三)』三島由紀夫

 すぎし大正はじめの剣道部の精神も、一度もそれに与らなかった本多をも含めて、一時代を染めなした紺絣の精神だったから、今となっては本多も自分の記憶の青春を、それに等しなみに包括させることに吝かでなかった。
 これを更に醇化し、更につきつめた勲の世界にいたっては、本多はそれと青春を共にしたわけではなく、外側から瞥見しただけだったが、若い日本精神があれほど孤立した状況で戦い自滅して行った姿を見ては、「自分をこうして生きのびさせている力こそ、他ならぬ西洋の力であり、外来思想の力だ」と覚らざるをえなかった。固有の思想は人を死なせるのだ。
 もし生きようと思えば、勲のように純潔を固執してはならなかった。あらゆる退路を自ら絶ち、すべてを拒否してはならなかった。
 勲の死ほど、純粋な日本とは何だろうという省察を、本多に強いたものはなかった。すべてを拒否すること、現実の日本や日本人をすらすべて拒絶し否定することのほかに、このもっとも生きにくい生き方のほかに、とどのつまりは誰かを殺して自刃することのほかに、真に「日本」と共に生きる道はないのではなかろうか? 誰もが怖れてそれを言わないが、勲が身を以て、これを証明したのではなかろうか?(p28)