刺殺

奔馬 豊穣の海(ニ)』三島由紀夫

 蔵原は煖炉にむかって安楽椅子に身を埋めたらしく、窓からはその禿げ上った額が、煖炉の焰につれて、ゆらめくように見えるだけになった。傍らの茶を啜りながら、本でも読んでいるのか、それとも黙想しているのかと思われる。
 勲は入口を探したが、庭から上る二三段の石段があって、そこにドアがついている。光りがかすかに洩れる隙間に目をあてる。鍵はなくて、懸金があるだけである。外套から短刀を取り出し、外套を脱ぎ捨てて、軟らかい闇の土の上に置いた。石段の下で、勲は短刀を抜いて、鞘を捨てた。抜身はそれ自身が光りを放つかのように蒼然と光った。
 足音をしのばせて石段をのぼり、刃先をドアの隙間へさし込んで、懸金に宛がった。懸金は甚だ重い。ようやく跳ね上げたときに、その音が、柱時計の針の音ほどに響いた。
 室内の変化は窺うべくもないが、その音で蔵原が聴耳を立てたのはもはや確かだったので、勲は一気にドアのノブを廻して押し入った。
 蔵原は煖炉を背にして立上った。しかし叫ばなかった。顔全体に薄氷のようなものが張りつめていた。
 「何者だ。何をしに来た」
 と嗄れた無力な声が言った。
 「伊勢神宮で犯した不敬の神罰を受けろ」
 と勲は言った。その声の高からぬ低からぬ朗らかな調子に、勲は自分が落着いているという自信を持った。
 「何?」
 蔵原の顔には全く正直に、理解しかねる表情が泛んだ。一瞬の裡に記憶を手さぐりして、何一つ思い当らぬという心持がありありとわかった。それと同時に、忌わしい隔絶した恐怖が、はっきり狂人を見る目で勲を見ている心を語っていた。おそらく背後の火を除けたのであろう。蔵原が煖炉のそばの壁へ背をずらしたことが、勲の動きを決定した。
 かつて佐和に教わったとおり、猫のように背を丸め、右肱をしっかり脇腹につけ、短刀の柄を握った右手の手首を、刃が上向かぬように左手で押えつけたまま、勲は体ごと蔵原の体に打ちつけた。
 刃が相手の体に入る感覚よりも、柄頭が自分の腹に、逆の力で、強く当った衝撃が第一に来た。それでも足りないと思われたので、勲は相手の肩を押えつけて、さらに深く刺そうとしたが、つかもうとした肩が思ったよりもずっと低いところにあるのにおどろいた。そして押えつけた肉は、小肥りの柔らかさがみじんもなく、板のように緊張していた。
 彼の目の下にあるのは、苦痛の顔ではなく、弛緩した顔だった。目はみひらき、口はだらしなくあけ、上側の入歯がずり落ちてせり出していた。
 勲は刀を抜こうとしたが、抜けないので焦慮した。相手の体の重みがすべて刃にかかって来て、蔵原の体はひたすら刃先を重心にして雪崩れつつあった。とうとう勲は、左手でその肩を押えつけ、右膝を上げてその腿のあたりを押えつけて抜いた。
 血が噴出してきて勲の膝に繁吹いた。蔵原は血の行方を追うように前へ倒れた。
 勲は身をひるがえして部屋を出ようとした。
 廊下へ通ずるドアがあき、出会頭に先程の女とぶつかった。女は悲鳴をあげた。勲はたちまち方向を転じて、入ってきたドアから庭へ駈け出したので、目にはただ、おどろいた女の白眼の角の残像があった。
 勲は庭をまっしぐらに海のほうへ向って駈け下りた。(p440)