受動的な「神の義」

『ルターを学ぶ人のために』金子晴勇 江口再起 編

 この回想文でルターは、神の「能動的義」と「受動的義」を区別することによって、自分が何を発見し認識したのかを示している。この能動的、受動的という言い方自体は、ルターにおいて、一五一四年秋以降の「塔の体験」から約十年後の著作『奴隷意志論』(一五二五年)に初めて登場する。そこで彼は、ある言葉をラテン語的語法で考えれば能動的意味が、ヘブライ語的語法で考えれば受動的意味が表現されるのだとして、次のように書いている。「「神の義」という言葉は、ラテン語では[つまり能動的意味では]「神がもっていたもう義」のことだが、ヘブライ語では[つまり受動的意味では]「神より出づる義」と解される」(WA 18,769)。(p75)

信仰のみ

カルヴァン』渡辺信夫

 神の前に全く無力である人間像が、近世の初頭に出現したことを不思議に思う人があるかもしれない。そのような人間像は、むしろ中世のものではないだろうか。ところが、中世の思想をしらべてみた人は、中世には、カルヴァンのそれのような、徹底的に神を高め、神の前に徹底的に人間を低めるような思想は、ほとんどなかったことを知るであろう。中世のキリスト教思想の主流は、神と人間との協力関係を考えていた。人間は自由なものとして、神から与えられる救いの恵みを、受け入れるか、拒否するかの選択をすることができる。自分の力だけでは、人は救いにはいることはできない。けれども、神の恵みがあっても、人間がそれに協力しなければ、救いは実現しない。だから、人間は善きわざを積み上げていかねばならない。――こういうことが説かれ、そして信じられていた。
 この考えに最初の一撃を与えたのがマルチン=ルターである。かれが「信仰のみ」ということを主張するとき、それはカトリック教会で長い時代にわたって教えられてきた「善きわざ」による救いを否定する。わたしたちは、この問題をくわしく論じることを第二部にまわして、ここでは簡単に取り扱うほかないのであるが、ルターがそのような主張をはじめたとき、救いの問題を真剣に追求していた民衆の渇きをいやしたのである。それほど、これは喜ばしいメッセージとして受けとられた。
 ルターはしかしそこにとどまらない。初めかれと共同戦線を張っていたエラスムス(一四六六~一五三六)との間に、きびしい決裂の時期がきた。エラスムスは「自由意志」をとなえる。すなわち、人間は自分の救いを選択する自由をもつと言う。ルターはそれに対し「奴隷意志」ということを主張する。人間の意志は奴隷的であって、選択の自由を持っていない。神が決定したままに服するほかない。神が救おうと決意されたならば、そのものは救われる。神が救うまいとされたならば、そのものは救われない。(p43)

キリスト者の自由

『ルター 世界の名著23』松田智雄 編

 キリスト者の自由

 第一 キリスト者とは何であるか、またキリストが彼のために確保して与えてくださった自由とはどんなものであるか。
 これについては聖パウロも多く書いているが、根本から分かるように、私は次の二つの原則をあげてみたい。

  キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも従属していない。
  キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、だれにも従属している。

 この二つの原則は、聖パウロの次の言から明らかである。第一コリント書九章(一九節)「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、みずから進んですべての人の奴隷になった」。ローマ書一三章(八節)「たがいに愛することのほか、だれにも何も借りなさるな」
 ところで愛とは、その愛する者に奉仕し、また従うものである。だからキリストについても、ガラテア書四章(四節)に、「神はみ子をつかわし、女から生まれさせ、律法に従わせられた」とある。(p52)

奴隷的意志

『ルター 世界の名著23』松田智雄 編

 奴隷的意志

 教皇神学者たちが、あるいは少なくとも彼らの父であるペトルス・ロンバルドゥスが教えていることのほうが、これよりははるかに我慢のできるものだ。彼らは、自由意志とは識別の能力であり、次に、選択の能力であって、その選択の能力も、もし恩恵が臨在すれば善を選択し、反対に、恩恵を欠けば悪を選択する能力である、と言っており、アウグスティヌスとともに、明らかに、自由意志は、自発的な力では堕落すること以外はなしえず、「罪を犯す以外のことには役立たない」と考えているのである。それゆえに、アウグスティヌスも『ユリアヌスを駁す』第二巻で、「自由というよりは奴隷というべき意志」と言ったのである。(p194)

アメリカのユダヤ人の危機

イスラエルイラクアメリカ』E.W.サイード

 数週間前、ジェニーンの包囲攻撃が行なわれていたのとほぼ同じ頃、ワシントンではイスラエルを擁護する派手なデモが開催された。演説したのは上院議員や主要ユダヤ系団体の幹部、その他の有名人など、広く衆目を集める人々ばかりだった。各人とも、イスラエルのあらゆる行動に対する無尽蔵の連帯意識を表明した。政府を代表したのは国防総省ナンバー・ツーのポール・ウォルフォウィッツだった。昨年九月以来ずっとイラクのような国を「始末する」ことを提唱しつづけている極右のタカ派である。ウォルフォウィッツはまたイスラエル支持者のなかでも徹底した強硬派として知られており、その演説は他の講演者たちと同じような内容(イスラエルを賞賛し無条件の全面支持を表明する)だったが、意外なことにふと「パレスチナ人の苦しみ」についても言及した。この一言で、彼は大きなブーイングを浴びせられることになった。ブーイングはあまりにやかましく、長いあいだ続いたため、ウォルフォウィッツは演説を続けることができず、面目をなくした格好で壇上を去った。
 この出来事から得られる教訓は、アメリカに住むユダヤ人のイスラエルに対するおおやけの支持においては、パレスチナ人という人々が現実に存在することを認めるようなものはいっさい容認されず、それが許されるただ一つの例外はテロリズム、暴力、悪意と狂信のからみで出てくる場合だということだ。そのうえ、「もう一方」の存在を認識すること(それについて聞くことはもとより)に対するこのような拒絶は、イスラエル人のあいだにみられる狂信的な反アラブ感情をはるかに超えたものだ。実際にパレスチナで闘争の最前線に立っているのはもちろん後者である。イスラエルでは、最近のテルアヴィヴにおける反戦デモに六万人が参加し、占領地で軍役につくことを拒否する予備役軍人が増加しており、知識人や団体が(少数ではあるが)持続的な抵抗を続け、いくつかの世論調査の結果によれば、イスラエル人の大半はパレスチナ人との講和のために占領地から撤退してもよいと考えている。以上のことから判断するに、イスラエルユダヤ人のあいだには、少なくとも政治活動の力学が働いている。だが、合衆国にはそれがない。(p01)

スキーの技術

スターリンヒトラーと日ソ独伊連合構想』三宅正樹

 フルシチョフによれば、フィンランド人は、赤ん坊が歩くのを覚えるより先にスキーを覚えるほどスキーの技術にすぐれており、ソ連軍は、高速自動ライフル銃を装備した、フィンランドのスキー部隊に遭遇して苦戦した。(p107)