ともしび

『ルター 世界の名著23』松田智雄 編

 詩篇講義

  あなたのみ言葉は、わが足のともしび、わが道の光です。(一一九・一〇五)

 これは驚くべき言葉である。なぜ、わたしの目のともしび、または視力の光と言わないのだろうか。いったい、足に光が与えられて道を見ることができるのだろうか。だが、ここでは、この世における信仰の特質が表現されているのだ。たしかに、目はキリストへの従順の中にとりことされるべきであって、人は、耳で聞かれるが目では見えないみ言葉のみによって導かれねばならないのである。なぜなら、われらは見えないものを信じるけれども、聞こえないものはこれを信じないからである。したがって、み言葉は目を照らさず、しかも耳を照らすこともしない。だが、それでもみ言葉はともしびである。なぜなら、それは足を導き、また信仰は知性ではなく心情を求めるからである。あなたが理解することではなく、むしろ欲することが必要であり、あなたが知ることではなく、むしろ聞くところを行なうことが必要なのである。このようにして、たとえあなたは見ないとしても、信じ、そして行動するなら、あなたは誤りに陥らないであろう。主のみ言葉は、あなたの足のともしび、あなたの道の光なのであるから、あなたは、ただ聞いて知ったところに従って静かに歩みなさい。あなたは、あなたの知らぬことをなし、あなたの理解しないことを行ない、どこに行くかを知らずしてみ言葉の導きに従って出てゆき、あなたの思いを捨てて愚か者となること以外には、何も求められていないのである。あなたが闇の中であなたの知らぬ道を案内者についてゆくとすれば、あなたは案内者に向かっていみじくもこう言うであろう。私は何も見ていないにもかかわらず、見ているかのように正しく歩むので、あなたはまさしく私の足の光であるけれども、私の目の光ではない、と。こういうわけで、神のみ言葉は、それが足もとと道を照らすので驚くべきものなのである。だが、文字の言葉や人間的な知恵はそうではない。なぜなら、文字の言葉は、それが語るところを理解させ、それ自身を目に対して光として示すので、信仰を空しくするからである。(p405)

ただ罰する人たち

『ルター 世界の名著23』松田智雄 編

 詩篇講義

  主よ、あなたの怒りをもって、わたしを責めず、あなたの激しい怒りをもって、わたしを懲らしめないでください。(六・一)

 ただ罰する人たち、ただぶどう酒を注いで無益に、そして癒すことをせずに矯正しようとする人たちだけが、「怒り」と「激しい怒りをもって」責めるのである。言い換えれば、これらの人は助けをまっとうするために傷を傷つけ、芽つぎすることをしない。これは悪魔的なやり方である。だからここで主は、たしかに人が責められることを願っておられるけれども、いつくしみと謙虚さにおいてこれを願っておられる。主は、ご自身においても、主に属する人たちにおいても、油とぶどう酒がともに用いられ、人が効果的に癒されることを選びたもうのである。(p388)

自己を弾劾する者

『ルター 世界の名著23』松田智雄 編

 詩篇講義

  それゆえ、不義なる者は審きに耐えない。(一・五)

 義なる者は、何よりもまず自己を弾劾する者である。それだから、義なる者は日に七たび倒れても、また起きあがるのだ(箴言二四・一六)。なぜなら、義なる者は罪あるゆえをもって自己を弁解することなく、むしろただちに罪を告白し、自分自身を弾劾するからである。これによって罪は、義なる者にとってただちに赦されており、彼は起きあがったのである。(p386)

従順

『ルター 世界の名著23』松田智雄 編

 詩篇講義

 したがって、わざの大きさで従順の大きさを測り、命ぜられたわざを少ししか行なわないということをもって従順の僅少なることを測るのは、愚の骨頂である。神は犠牲ではなく従順を求めたもう。神ご自身はより大いなるわざをなしうるのであるから、神は、われらの大いなるわざに注目したまわず、ただ従順を求められるのである。(p383)

ルターの回心の根拠

親鸞とルター』加藤智見

 さて自分の力によっては罪から逃れ得ないとするルターの苦悩の根底には、「神の義」という問題があった。彼は全能の神が義をもって罪を責め罰すると考えていたからである。しかしルターの見方は次のように逆転された。「昼も夜も考え続けた末、神のあわれみにより、義人は信仰によって生きる、と書かれているように、神の義は(福音)の内に啓示されている、という言葉のつながりに気づいた。そのとき、神の義は、義人が神の賜物である信仰によって(ex fide)生きるその神の賜物、信仰と同義である、と考え始めたのである。そして神の義は福音によって啓示される、ということはこのように解されるべきであり、受動的であることを考え始めたのである。すなわち義人は信仰によって生きる、と書かれているように、あわれみ深い神は信仰によって人をして義としたもうのである。このようにして、私は自分が徹底的に生まれ変り、門が開かれ楽園の中へ入ったと気づいたのである」。
 あれ程神の義に苦悩したルターをして、新たに生まれ変ったと語らせた根拠、すなわち決定的な回心をせしめたその根拠は何であったのか。この点について以下考察していきたい。

 キリストの苦悩との出会い

 ルターは詩篇の講義のため、その詩篇の真意を聴きとるべく全身全霊をもって一字一句を読み込んでいったことであろう。罪におののき我身の救いをひたすら求めた彼にあって、また完璧性、徹底性、執拗性をその特性とする性格によってもその求めは激しく強烈であったと考えられる。彼の苦悩はもはや単に哲学的理性、意志的な善行によっても解決され得ぬものであった。シュタウピッツの徳の高いやさしい人間性によってもその苦悩は消えなかった。シュタウピッツ自身もルターの苦悩を理解し切れないと言った。ルターにとって自分の苦悩は自分一人のものであり、誰によっても代替されたり肩代りされ得ないものになっていた。このような苦しみと悲しみを抱きつつ救いを詩篇に求めていった。
 しかしここに一条の光が差し込み始める。その頃まで恐ろしい審判者としてのみ見ていたキリストが、実はルターより以前に、ルターよりはるかに苦悩していた、ということに気づきはじめた点である。
 詩篇を読み進んでいくうちに、たとえばキリストの次のような姿に彼は強くしかも深く心を貫かれていった。
 「わが神、わが神、なんぞ我を捨てたもうや、なにゆえに遠く離れて我を救わず、わが嘆きの声を聴きたまわざるか。ああわが神、われ昼よばわれども汝答えたまわず。夜よばわれどもわれ平安を得ず」(第二十二篇)。
 ここに彼は自分の苦悩と同じものを読み、感じ、気づいたのではないか。キリストがルターを苦しめるのではなく、ルター自身が人間としてキリストを苦しめ、そのためにキリストはルター以上に苦しんでいた、と感じたと察せられるのである。特にキリストが神によって捨てられたという言葉の中に、彼は自分の心が打ちのめされ心を奪われることになった。ルター自身は人間であり、罪にとらわれているがゆえに神によって捨てられても、ある意味で当然である。しかしキリストにはまったく罪がない。罪がなく聖らかであったにもかかわらず、キリストは神に捨てられた、と感じたのである。ここに回心に至る原点の一つがあると考えられる。キリストはかくして神に叫び訴え、しかも死した。人間にとって最も重く最も深い苦悩を、キリストは最も屈辱的な形で味わった。神の子として、神の意のままに従い、一点の汚れもなかったキリストが、人間のために人間と同じく苦悩ししかも罪ある人間の手にかかって死んだ。教会、修道院で教えこまれた審判者としてのキリスト、神とともに善きわざを要求するというキリスト観は逆転された。誰によっても救われないで苦悩していたルターの孤独は、十字架のイエスの耐えがたき孤独に比べればもはや無に等しくなった。キリストの苦悩はルターの苦悩を包みこんで包摂していく。ここに端的な観念的な世界とはまったく異質な世界が開かれていくことになる。
 ルターは述べる。「呪いから逃れたがる者達こそむしろ呪われるのだ。なぜならキリストもまたあらゆる聖徒にもまして呪われ捨てられたもうたからである。キリストの受難はある人々が考えているようななまやさしいものではなかったのである。真に我々のために永遠の呪いのうちに父なる神に御自身をささげたもうたのだ。キリストは徹底して永遠に地獄で呪われるべき(damnadus ad infernum)人間として生きたもうたのである」。神に呪われ、罪に責められていると苦悩してきたルターにとって、キリスト自身が呪われていると気づいたことは彼にとって驚くべきことであると同時に大きな救いになった。換言すれば、ルターのこのような身をけずるような苦悩が、このように聖書を読ませたとも言えよう。この体験について後に彼は述べている。「あなたのためにキリストは地獄におち、永遠に呪われた者の一人として神から見捨てられたもうたのである。それゆえにキリストは十字架の上で「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」すなわち「わが神、わが神、なんぞ我を捨てたもうや」と叫びたもうたのだ。見よ、この姿でこそ、あなたの地獄は克服され、不確実な予定は確実にされるのだ。このことだけをあなたがしっかりと心にとどめ、あなたのためにそれが為されたことを信じるならば、この信仰によって確かに救われているのだ。それゆえに、あなたの目からそれを奪いとられぬようにし、あなた自身の中にあなたを求めず、キリストの中にのみ(nur in Christo)あなたを求めるがよい。されば自分を永遠にキリストの中に見出すだろう」。ここにある意味で主体転換の在り方が考えられる。すなわちキリストによって、ルターの主体はルターの主体であると同時にキリストの上に転換される。ルターの苦悩の主体はルター自身でありつつキリストの負うものとなる。それがキリストの苦しみでもあり、同時にキリストの愛であり、ひいては神の意志、神の愛でもあった。「すなわちキリストは、我々が救われるようにと人類へのはかり知れない愛のために、父のもとから我々の不幸と獄舎の中に、換言すれば我々の肉と苦悩に満ちた生活の中にまで御自身を低め、我々の罪にかかわる罰を引き受けたもうた(recepit in se)」からである。罪なき神の子キリストが、自ら身を低め、人間が受くべき罪の罰をひきうけたと気づくルターにあって、ルターのキリストへの恐れは、深い信仰と感謝と歓びに転質されていった。その結果彼のそれまでの激しく深い苦悩は、神による試練として受けとられることになる。何故ならば、「我々と同じように(als wir)、キリストは死と罪と地獄の形により試練を受けたもうた(angefochten)のである」と気づき得たからである。またここに、義、わざ、キリスト、神等を客体的、観念的に考えていた態度が、大きく人格的な見方に逆転されていることを留意せねばならない。ルターのために一人苦悩したキリストの人格に彼の全関心が集約されていくからである。(この点は、親鸞が本来法性法身の一如であった如来がかたちをあらわし方便法身の姿を示し、法蔵菩薩となのり、自ら苦悩したという側面すなわち人格的側面に全関心を集約していった点とある意味で類似する点が考えられる。もとよりルターにおいては神の意志に背反し自己愛におちいることが罪であった。親鸞においては、本来仏性をもちながらも煩悩にさえぎられて生死を重ねることが悪であった。ルターの「罪」と親鸞の「悪」、さらにはキリストは神の子であり、法蔵菩薩如来が姿をかえたものであり、両者の背景はまったく異質なものであって元来同一次元で比べ得るものではないが、しかしこのようにキリストの苦悩に我身の苦悩を照らし出されるルターの心情、法蔵菩薩の苦悩に我身の悪を思い、仏恩を報謝する親鸞の心情には、宗教において苦悩を歓喜に転換させる内的な類似性があるのではなかろうかと思える。)
 さらにこのようなキリストの姿の中に回心への一根拠を見出したルターにおいて、彼の神観はまったく新たなものになるのではないか。「キリストを知らぬ限り、受難の中に隠れていたもう神を(Deum absconditum in passionibus)知らない」。キリストの苦悩を知ったルターは、そのキリストの受難の中に神の真意を求めていく。そこにおいて真なる神の義が知られ、回心がまっとうされていくからである。(p199)